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小夜啼鳥(ナイチンゲール)30 side春海

唐突に告げられた言葉に。 思考が停止した。 「…飼う、って…?」 「文字通りだよ。最近、ちょっとしつこい人に言い寄られててさ。もう、ウンザリなんだよね」 言葉の意味がわからず、問い返すと。 その唇の端に笑みを湛え、困ったように眉を寄せる。 「それって…もしかして、あの環境大臣…?」 先日の、まるで俺を威嚇するような狼の眼差しを思い出し、思わず身震いした。 「そ。番になれ、番になれってさ。俺、誰とも番になんかならないって何度断っても、諦めてくれないの。だって、あんな家柄のいいお坊ちゃんとこんなアバズレΩ、吊り合うわけわけないじゃん」 そんな俺の様子には構わずに、楓は少し苛立ったように、空になったカップをローテーブルにカチャンと音を立てて置いて、ソファに深く身を沈める。 「なんかもう、断るの面倒になっちゃってさ。誰かのペットにでもなったら、いい加減、諦めてくれるでしょ?」 投げやりでぞんざいな、言葉遣いで。 まるで、事前に用意していた台詞を紡ぐような滑らかさで。 楓が、話す。 こんな楓、俺は知らない。 俺の知ってる楓は、穏やかで、初夏に吹く風のように温かくて優しい人。 目の前の人は、楓の姿をした別人のようだ。 「春くんなら、いろいろ説明しなくても俺を知ってるし。βだから、番になる心配もないしね」 「…楓…」 「ああ、もちろん。ただで飼って、なんて都合のいいこと言わないから。SMのキツいのとか、スカトロとかはホントは勘弁して欲しいけど…春くんがもし、そういうのが好きで、どうしてもっていうなら、俺頑張るし」 「…俺に、そんな趣味はないよ」 「そう?なら、よかった」 なぜ急に、そんな顔をするのかわからなかった。 淫乱な、娼婦の顔。 そういう仕事をしていても あの店での『柊』は 決してそんな雰囲気は出してなかった むしろ身体を売ってるなんて嘘なんじゃないかってくらい上品で気高くて 高嶺の花に憧れるように みんな君を見ていたのに きっと なにかあるはずなんだ 俺に対してだけ こんな態度を取る意味が 今度こそ 見失っちゃいけない あの時 下らない嫉妬心に捕らわれたせいで 俺は君を見失ってしまった 一生分の後悔をした そして誓ったんだ もし、もう一度会うことが出来たなら もう二度と君を見失わないと 「それにさ。春くんがやってる、抑制剤の臨床試験っての?それに、俺を使ってくれていいよ」 「え…?」 突然、話の方向が変わって。 俺はまた、戸惑った。 なんで、今急にその話…? 「俺、今市販されてる薬は全部効かないの、証明済みだし。その上、番持ちでもない、身寄りもない。戸籍だって、もしかしたらもうないかもしれないしね。だから、治験の途中でなんかの事故があっても、訴える人もいないし。どこの誰かもしれない野良のΩがこの世からいなくなるだけ。こんな好条件の実験道具、他にはいないと思うけど?」 楓は、そう言って笑った。 「どう?俺を飼う気になってくれた?」

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