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猿喰鷲(さるくいわし)16 side龍
そのフロアに足を踏み入れた瞬間
世界が止まった
重厚なドアを開いた瞬間、耳に飛び込んできたピアノの音。
ショパンの「ノクターン」
その部屋の中央には、立派なグランドピアノが置かれていて。
そこに座る、華奢なシルエット。
楓……!?
いや…
そんなはずはない
でも…
ここは男Ωだけのクラブ…
まさか本当に…?
思わず駆け出しそうになって。
「若様?どうかなさいましたか?」
不意にかけられた牧野の声に、我に返った。
「あ、いや…」
目を凝らしてよく見てみると、ピアノの前に座っているのは、色素の薄い髪色をした楓とは違う、真っ黒い髪の少しくせっ毛の男で。
楓…のわけないか…
そんな奇跡、あるわけない
だって、あいつはもうきっと……
でも…
この音…
そう
ここのアクセントの付け方
楓の弾きかたとそっくり一緒で
どうして…
「…もしかして、あの子を気に入ったんですか?」
テーブルについても、さっきのピアノを弾いていたΩを目で追っていると、牧野がそっと耳打ちしてきた。
「あ…いや…」
彼はノクターンを弾き終わるとピアノを離れ、今はあちこちのテーブルに酒を運んでいる。
「あの子、確か去年デビューした志摩って子ですけど…あの子を指名しますか?」
「え?あ、いや…」
「理人くん、志摩くんを呼んでやってくれるかい?」
「えーっ?牧野様、僕より志摩の方がいいって言うんですか?」
「いやいや、私は君の方がもちろんいいよ。副社長がね。あの子に興味があるらしくって」
「ふーん…わかりました。志摩!ご指名だよ!」
別に指名とかそんなのは全然考えてなかったのに、牧野が勝手に勘違いしてそう決めつけてしまい。
すでに俺たちの相手をしていたΩが、あの子を呼んでしまった。
「牧野!俺は、別に指名なんて…」
「まぁまぁ、私には隠さなくったっていいですよ。しかし、意外ですな。若様はああいう可愛い子より美人が好みだと思ってたんですけど」
「だからっ、そうじゃなくてっ…」
「ご指名、ありがとうございますっ!志摩です!」
小声で牧野に文句を言っていると、元気な声が側で聞こえてきて。
そっちを見ると、キラキラと目を輝かせながらその子が立っていた。
…なんか、犬が尻尾振ってるみたいだな…
可愛い顔はしてるけど
楓とは全然違うタイプだ
さっき俺
なんで楓と見間違えたんだろう
ふと、実家の一番奥の部屋で、幸せそうにピアノに向かうかつての楓の姿が脳裏に蘇ってきて。
胸が締め付けられるように、苦しくなる。
「九条様?大丈夫ですか?」
思わず、胸に手を当てて前屈みになると、心配そうに顔を覗き込んでくるから。
「…大丈夫だ。さっさと座れ」
表情を見られたくなくて、顔を背けながら素っ気なく言うと。
「…失礼、します」
遠慮がちな声とともに、ソファがぎしりと沈んだ。
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