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猿喰鷲(さるくいわし)20 side蓮

「総支配人。お疲れさまです」 「ああ。ご苦労様、金子くん。仕事はどうだ?困ったことはないか?」 「はい。大丈夫です!」 「困ったことがあったら、すぐに私宛にメールしてくれよ。自分では下らないと思うことでも、誰かにとっては大切なことかもしれないからな」 「ありがとうございますっ!」 怒涛のチェックアウトラッシュが終わった、11時過ぎ。 客が減って、少し空気の緩んだ館内を周り。 従業員一人一人に声をかけるのは、一日で一番大切な仕事だ。 支配人室に閉じ籠って書類とにらめっこばかりしていては、今このホテルでどのような問題が起こっているのかわからないし。 いつでもなんでも言ってくれと口先だけで言ったところで、顔も知らない上司に言うのは気が引ける者もいるだろうし。 だから、俺は従業員の顔と名前を全て覚え、必ず名を呼び、声をかけながら、本館を毎日隈無く歩き回った。 九条にいた頃は考えられないことだ。 傘下企業も入れると数万人という従業員全員の顔と名前を覚えるなんて、不可能だから。 こうして、毎日皆と顔を合わせ、他愛もない雑談や時に真剣な相談に乗っていると、とても充実していて。 自分は心から人間が好きなんだなあと思う。 九条にいたら、一生味わえない感覚だったかもしれない。 「…社長と和哉には、感謝だな…」 俺を日本に呼び戻してくれたからこそ、今のこの充実した毎日がある。 「…楓…おまえが今の俺を見たら、なんて言うかな…?」 廊下から、窓の外に広がる青空を見上げると。 一羽の真っ白い鳥が目の前を飛んでいく。 蓮くんってば、そんな小さなところで満足してるの? そう言うかな? いや… おまえならきっとこう言ってくれるだろう 今の蓮くんの顔 俺は大好きだよ と…… 「うわぁ~素敵!」 「この曲いいわ~」 「なんか、泣けるよね」 休憩室を覗くと、数人の女性従業員が顔を突き合わせて、盛り上がっていた。 「なんだ?なんか、いいものでもあったのか?」 声をかけると、一斉にこっちを振り向いて。 「あ、そ、総支配人っ…!」 そのうちの一人が、慌ててなにかを後ろ手に隠す。 「休憩中なんだから、別に隠さなくったっていいだろう?ずいぶん盛り上がってたけど、なにか面白いことでも?」 怒らないよ、と微笑みを張り付けて促すと、顔を見合わせて。 隠したものを、おずおずと出してきた。 それは、休憩室に常備してあるタブレットで。 そこには、有名な動画サイトのトップページが写っている。 「総支配人…ヒメってピアニスト、知ってます?」 「ヒメ?いや…有名な人なのか?」 「ストリートのピアニストで、男か女かもわからない、正体不明の人なんですけど…昨日、新しい動画が上がってて、すっごくいいんですよ!今までは、クラシックやポップスを弾いてたんですけど、今回の、どうやらオリジナルみたいで!もう、めちゃくちゃいいんです!総支配人も、聞いてみてください!」 一人が興奮した様子で、動画を再生する。 写し出されたのは、一台のグランドピアノ。 背景を見ると、どこかのデパートの一角のようだった。 周りには、たくさんのギャラリーがいて。 そこへ、一人の人間がフレームインしてきて、ピアノの前に座った。 その後ろ姿に 心臓が一瞬止まった 肩甲骨の辺りまで伸びた、さらさらの色素の薄い長い髪。 小柄で華奢な体躯は、パッと見、男か女かわからない。 でも、よくよく骨格を見てみれば、男だとわかる。 まさか… 男は、こちらには一切顔を見せないまま、鍵盤へ手を乗せ。 息を小さく吸うと、その長くて美しい指を鍵盤へと滑らせた。 途端、溢れ出るキラキラと光る宝石のような音。 優しく繊細で、でも時に力強く。 聞いているものの心を、激しく揺さぶる音。 知らない曲だった でも この弾き方… 俺が聞き違えるはずなんか、ない 身体の奥底から 閉じ込めていたはずの愛おしさが 濁流のように溢れ出す 「…こんなところに…いたのか…」 「え!?支配人!?なんで、泣いてるんですかっ!?」 楓…… 会いたい……… どうしてもおまえに会いたい…… 会いにいってもいいか…? 俺にそんなことを言う資格なんてないことは 痛い程わかっている それでもなお 一目でいいからおまえに会いたいという願いを捨てられなかった愚かな俺を こんなに時が経ってようやくおまえを見つけられた情けない俺を おまえは許してくれるだろうか……?

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