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歌詠鳥(うたよみどり)9 side春海

「楓、今日は銀座SEVENに行ってみようか」 数日経って、だいぶ体調も安定してきたのを確認して。 俺はそう、声をかけた。 「うん!行きたい!ありがとう、春くん!」 ソファに寝そべって、なにかの楽譜を眺めていた楓は、俺の言葉に勢いよく起き上がる。 そうして、遠足前の子どものようにワクワクした顔で、出かける準備を始めた。 「今日、あの子来るかな?」 「みーたん?どうかなぁ…来て欲しいけど、お知らせする方法がないもんね…」 困ったように眉を下げる楓を横目に、こっそりと動画サイトのコメント欄に、今日の15時頃いつもの場所にヒメが現れることを書き込む。 これで気付いてくれればいいけど… 「きっと、来てくれるよ。あれ、弾いてあげる約束してるんだろ?プリティア。ちゃんと、アニメも見て予習もしたしね」 「うん。結構面白かった。春くんも今度、見てみなよ」 「いやぁ、俺は…」 「そういえば、春くんが好きだった特撮の主題歌も、弾いたことあったよね?なんだっけ…救急戦隊ゴーゴーレンジャーだっけ?」 「覚えてんの?」 「うん。たぶん、まだ弾けると思うよ?」 楽しそうにそう言って、楓はシャツのボタンを留めるのもそこそこに、ピアノの蓋を開けた。 「ちょっ…今弾かなくてもっ…」 間に合わなくなるじゃん! 「ちょっとだけ」 密かに焦る俺に気付くことなく、楓はポンとドの鍵盤を指で弾くと。 躊躇いなく、懐かしいメロディーを奏で始めた。 「え…ホントに覚えてるの?」 「うん。だって、あの時は春くんと蓮くんが、すっごく喜んでくれたから…俺も、すっごく嬉しくて…」 話す語尾は、段々小さくなって。 その横顔には、どこか切なさを帯びた影が落ちる。 きっと今 蓮のことを思い出してるんだよね… 楓を今満たしているだろう二人だけの思い出に、割って入ることなんて出来なくて。 俺は楓の気が済むまで、そっとその背中を見守り続けた。 「え…なに、これ」 いつものピアノの前には、もう既に人集りが出来ていた。 「なんで、もうこんなに?なんかやってたのかな?」 「さ、さぁね?なんだろうね?」 あのコメント、10分で削除したのに! みんな、ヒメのこと、待っててくれるんだなぁ 「ほら、ヒメ」 自分のことのように喜びを感じながら、楓の背中をそっと押し出すと。 「ヒメちゃんっ!」 人集りの中から、小さな影が飛び出した。 「みーたん」 楓が両手を広げると、タックルするような勢いで飛び込んでくる。 「待っててくれたの?」 「うん!プリティア、ひいてね!」 「わかってる。ちゃんと練習してきたから、楽しみにしててね」 その子を抱き上げて、柔らかい微笑みを浮かべる楓を見ていると、胸の奥に痛みともつかない疼きを感じた。 もしも あの時龍があんなことをしなければ きっと今その腕の中にいたのは 愛する我が子だったはずなのに… 「ヒメちゃん、だーいすき!」 「ふふ…俺も、みーたんが大好きだよ」 楓の負った心の傷の深さを思うと、女の子を見つめるその瞳が聖母のようであればあるほど、切なさに胸が締め付けられた。

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