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歌詠鳥(うたよみどり)12 side春海

「脈拍、血圧ともに正常値に戻ってるな。心音も、異常なし。気分はどう?ヒメ」 聴診器を外し。 亮一は少し緊張を緩め、笑みを浮かべながら訊ねる。 「なんか…まだ、身体がふわふわする感じはしますけど…ヒートの時の、熱っぽい、わけのわかんない感じは、ないです」 楓は、まだ頬をピンク色に染めながらも、しっかりとした口調で答えた。 でも、不安が完全に拭えたわけではないんだろう。 俺の手を握り締めた手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。 俺はもう片方の手でそれを包み込みながら、安堵の息を吐いた。 治験が成功した喜びよりも、ホッとした気持ちの方が何倍も大きかった。 ああ… これでようやく 楓を自由にしてあげられる…… 「うんうん、いいね。経過時間から考えると、今が一番誘発剤が効いてるはずだから、試薬でヒートが抑えられてると思って間違いないんじゃないかな」 「ホント、ですか?俺の身体がおかしいんじゃなくて?」 「そんなことないよ。なぁ、馬路?」 「ええ。凄いですね。ヒメちゃんのあの傍若無人なヒートを、完全に抑え込めてる!」 珍しく興奮気味の馬路は、意味のわからないことを言いながら、ものすごい勢いでキーボードを叩いてデータを打ち込んでる。 「傍若無人って…なんじゃそりゃ…」 思わず小声で突っ込むと、楓はふふふ、と軽やかに笑った。 「よし!藤沢くん、あとは頼んだ!」 二人でほくそ笑み合ってると、馬路は突然立ち上がり。 振り向きもせずに、出ていってしまう。 「え…なに?馬路さん、どうしたの?」 「あー、心配ないよ、ヒメ。たぶん、今のデータをもう一回精査し直すんでしょ。あの人、研究のことになると周りが見えなくなるから」 「ふぁ…俺も、ちょっと寝るわ…昨日、夜中緊急オペで呼び出されて、寝不足なんだ」 「え、そうなの?」 「まぁ、もう大丈夫だと思うけど。念のため、あと二時間はここにいてくれよな。なんかあったら、隣にいるから叩き起こしてくれ。あ、拘束は外してもいいけど、イチャイチャは禁止な。ヒメのフェロモン出ちゃうから」 「し、しないよ、そんなことっ!」 亮一はなんだか楽しそうに笑いながら、大あくびとともに隣の部屋へと消えた。 取り残された俺たちは、また顔を見合わせて笑って。 拘束を外し、楓を起き上がらせて、はだけていた服を整えてやった。 「…ありがとね。今まで」 「え…?」 「これで終わり…ってわけじゃないけどさ。継続的な効果の確認や副反応なんかのデータはまだまだ必要だし、これから他の人でも更に治験を重ねて、承認申請して…世の中に出回るには、まだまだ時間がかかるけど…でも、ようやく第一歩を踏み出せた。…全部、ヒメのおかげだ」 「…春くん…」 「この薬は、きっと多くのΩを救う画期的な薬になる。ヒメが…ううん、楓が、苦しんでるΩたちを救うんだよ。楓が苦しみながら今まで生きてきたことが、みんなの希望に繋がったんだ。楓の生きてる意味は、もう十分過ぎるほどあるよ」 言い聞かせるように、一言一言に思いを込めて。 枕元に置いてあった一輪の薔薇を、その手に持たせる。 「だから…これからは、自分のために生きよう?」 もう十分 「楓が本当に望むこと、見つけよう?」 俺には この薔薇のように 君を心からの笑顔にすることは出来ないから 「幸せに、なっていいんだ。こんなに頑張ったんだもの。神様だって、楓が幸せになることを許してくれるよ」 だから 楓の望む場所へ 本当の楓の心が望む場所へ 君が本来在るべき場所へ もう羽ばたいていっていいんだよ 「…俺が、見つけてあげる。楓の居場所を」 そっと腕を伸ばし、抱き締めると。 楓の身体は泣けるほどあったかくて。 「春くん?どうしたの?急に。俺の居場所は、春くんの隣だよ?春くんと一緒に居られて、大好きなピアノを毎日弾けて。俺は今、十分幸せだよ?」 居心地悪そうにモゾモゾと動く楓を、しっかりと抱き締めながら。 込み上げそうになる涙を、奥歯を噛み締めて堪えた。

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