217 / 566
歌詠鳥(うたよみどり)12 side春海
「脈拍、血圧ともに正常値に戻ってるな。心音も、異常なし。気分はどう?ヒメ」
聴診器を外し。
亮一は少し緊張を緩め、笑みを浮かべながら訊ねる。
「なんか…まだ、身体がふわふわする感じはしますけど…ヒートの時の、熱っぽい、わけのわかんない感じは、ないです」
楓は、まだ頬をピンク色に染めながらも、しっかりとした口調で答えた。
でも、不安が完全に拭えたわけではないんだろう。
俺の手を握り締めた手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。
俺はもう片方の手でそれを包み込みながら、安堵の息を吐いた。
治験が成功した喜びよりも、ホッとした気持ちの方が何倍も大きかった。
ああ…
これでようやく
楓を自由にしてあげられる……
「うんうん、いいね。経過時間から考えると、今が一番誘発剤が効いてるはずだから、試薬でヒートが抑えられてると思って間違いないんじゃないかな」
「ホント、ですか?俺の身体がおかしいんじゃなくて?」
「そんなことないよ。なぁ、馬路?」
「ええ。凄いですね。ヒメちゃんのあの傍若無人なヒートを、完全に抑え込めてる!」
珍しく興奮気味の馬路は、意味のわからないことを言いながら、ものすごい勢いでキーボードを叩いてデータを打ち込んでる。
「傍若無人って…なんじゃそりゃ…」
思わず小声で突っ込むと、楓はふふふ、と軽やかに笑った。
「よし!藤沢くん、あとは頼んだ!」
二人でほくそ笑み合ってると、馬路は突然立ち上がり。
振り向きもせずに、出ていってしまう。
「え…なに?馬路さん、どうしたの?」
「あー、心配ないよ、ヒメ。たぶん、今のデータをもう一回精査し直すんでしょ。あの人、研究のことになると周りが見えなくなるから」
「ふぁ…俺も、ちょっと寝るわ…昨日、夜中緊急オペで呼び出されて、寝不足なんだ」
「え、そうなの?」
「まぁ、もう大丈夫だと思うけど。念のため、あと二時間はここにいてくれよな。なんかあったら、隣にいるから叩き起こしてくれ。あ、拘束は外してもいいけど、イチャイチャは禁止な。ヒメのフェロモン出ちゃうから」
「し、しないよ、そんなことっ!」
亮一はなんだか楽しそうに笑いながら、大あくびとともに隣の部屋へと消えた。
取り残された俺たちは、また顔を見合わせて笑って。
拘束を外し、楓を起き上がらせて、はだけていた服を整えてやった。
「…ありがとね。今まで」
「え…?」
「これで終わり…ってわけじゃないけどさ。継続的な効果の確認や副反応なんかのデータはまだまだ必要だし、これから他の人でも更に治験を重ねて、承認申請して…世の中に出回るには、まだまだ時間がかかるけど…でも、ようやく第一歩を踏み出せた。…全部、ヒメのおかげだ」
「…春くん…」
「この薬は、きっと多くのΩを救う画期的な薬になる。ヒメが…ううん、楓が、苦しんでるΩたちを救うんだよ。楓が苦しみながら今まで生きてきたことが、みんなの希望に繋がったんだ。楓の生きてる意味は、もう十分過ぎるほどあるよ」
言い聞かせるように、一言一言に思いを込めて。
枕元に置いてあった一輪の薔薇を、その手に持たせる。
「だから…これからは、自分のために生きよう?」
もう十分
「楓が本当に望むこと、見つけよう?」
俺には
この薔薇のように
君を心からの笑顔にすることは出来ないから
「幸せに、なっていいんだ。こんなに頑張ったんだもの。神様だって、楓が幸せになることを許してくれるよ」
だから
楓の望む場所へ
本当の楓の心が望む場所へ
君が本来在るべき場所へ
もう羽ばたいていっていいんだよ
「…俺が、見つけてあげる。楓の居場所を」
そっと腕を伸ばし、抱き締めると。
楓の身体は泣けるほどあったかくて。
「春くん?どうしたの?急に。俺の居場所は、春くんの隣だよ?春くんと一緒に居られて、大好きなピアノを毎日弾けて。俺は今、十分幸せだよ?」
居心地悪そうにモゾモゾと動く楓を、しっかりと抱き締めながら。
込み上げそうになる涙を、奥歯を噛み締めて堪えた。
ともだちにシェアしよう!