220 / 566

歌詠鳥(うたよみどり)15 side蓮

その建物に一歩足を踏み入れると。 ピアノの音色が聞こえた。 優しくて甘くて柔らかくて でもどこか力強い おまえそのもののような音 見上げると、2つ上のフロアに置かれたピアノと。 その前に座る、長く伸びた色素の薄い髪が目に入る。 楓っ……! 考える間もなく、足が勝手に駆け出した。 エスカレーターを駆け上がり三階へ上ると、そこには何重もの人垣が出来ていて。 その向こう側に見えた姿に、ドクンっと大きく心臓が跳ねた。 追憶の中よりも少しシャープになった顎のライン あどけなさが抜け、洗練された美しさを描き出す目元 変わらぬ、柔らかい春の木漏れ日のような微笑み 踊るように鍵盤の上を滑る、長く美しい指 指の動きに合わせて揺れる、触れたらとても柔らかい髪 世界にたったひとつだけ 俺の心を震わせる音 「…楓…」 ずっと心の奥底にしまいこんであった狂おしいほどの愛おしさが 濁流となって溢れ出し 俺を押し流していく 楓…… よかった…… ちゃんと生きてた……… 信じていた でもどこかで、もしかしたら…と 挫けそうになる心を自分で叱咤して いつか必ず出会えるはずだと おまえだけが俺の運命なんだからと 信じ続けて 「……よかった……」 形振り構わずに駆け寄って、抱き締めたかった。 おまえの体温を、匂いを、この身体で直に感じて。 おまえがちゃんと生きていると、この身で確認したかった。 それを、なんとかなけなしの理性で抑え込んで。 俺は、幸せそうな顔で美しい音色を奏でる楓の横顔を、人垣の一番外から見つめ続けた。 「それじゃ、今日最後の曲です」 ギャラリーからのリクエスト曲を何曲か弾いて。 楓は静かにそう言った。 曲の合間に、何度かこっちに顔を向けたけど、一度も目は合わなかった。 なんとなく、俺の匂いや気配くらいは感じてくれるんじゃないかと淡い期待を抱いていたけれど。 わからないのだろうか…? もう俺のことなんか忘れてしまった…? それとも…… 微かにΩの匂いがするけれど、それが楓のものじゃないことは俺にはわかる。 今の楓からは、あの濃厚な梔子のような香りは全く感じられない。 そして。 美しい音を奏でるその左の手首には、かつて交わしたあのブレスレットはついていない。 それは、つまり… 「最後に弾くのは…僕の、一番好きな曲。誰よりも大切な人が大好きだと言ってくれた、大切な曲です」 恐ろしい予感に、身体が無意識に震え。 思わず、左手首のブレスレットを握り締めたとき。 ふ、と視線が動いて。 楓の色素の薄い瞳が、まっすぐに俺を捉えた。 視線が絡み合った瞬間 雷に打たれたような衝撃が全身を駆け抜けて 俺の世界から楓以外の全てが消え去った 俺を見つめたまま、楓はゆっくりと口角を上げて微笑む。 鮮やかに。 それは記憶の中と違わぬ なによりも大切で愛おしい微笑み 息をするのも忘れて、見つめ返していると。 楓はふ、と息を吐き、再びピアノへと向かって。 ゆっくり目を閉じ、柔らかいタッチで鍵盤を弾いた。 ショパンのノクターン おまえが諒おじさんからもらった 俺が唯一涙を流した 大切な大切な曲 「っ…楓っ…」 涙腺が決壊したように溢れだした涙を、拭うことも出来ずに。 俺はブレスレットを握り締めながら、美しい天使の奏でる音に包まれていた。

ともだちにシェアしよう!