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歌詠鳥(うたよみどり)16 side春海
…やっぱ、無理だよな…
カメラのレンズ越しにずっとその姿を見つめていたけれど。
楓の表情はいつも通りで、なんの変化もなかった。
数時間前のたった数分の書き込み
気がつくはずがない
たとえ気がついたとしても
あんな大きなホテルの支配人がそうそう仕事を放り出して来れるはずがない
わかってる
だけど…
失望なのか、安堵なのか。
自分でもわからない、ひどくモヤモヤしたものを抱えつつ、楓を見つめ続けていると。
「最後に弾くのは…僕の、一番好きな曲。誰よりも大切な人が大好きだと言ってくれた、大切な曲です」
突然、楓がそう言って。
顔を上げ、じっと一点を見つめて。
蕾が花開くような、美しい微笑みを浮かべた。
「…っ…」
思わず、息を飲んだ。
それは
俺がずっと欲しくて
でも決して得られなかった微笑み
蓮だけの……
その視線の先を辿る。
「……蓮……」
そこに、ひどく懐かしい親友の姿を見つけた。
息が、詰まる
嬉しいような
悲しいような
ほっとしたような
悔しいような
複雑に入り混じった感情が、ぐるぐると渦を巻きながら身体の奥から溢れてくる
ああ、でもやっぱ悔しいかな…
だってほら
あんな幸せそうな楓の顔
この2年間で一度も見たことないもん
思わず、目を伏せると。
耳に優しく響いてきたのは、ショパンのノクターン。
いつも楓が蓮の為に弾いていた、大切な大切な曲。
それは途方もない甘さと、胸を打つような切なさを乗せて。
聞いている人の心を、強く揺さぶった。
「ヒメさん、今日も素敵でした!」
「いつも聞きに来てくれて、ありがとう」
ギャラリーの人々に話しかけられ、それに柔らかい笑顔で答える楓を、蓮は身動ぎもせずにじっと遠くから見つめていた。
近付くこともせず、ただじっと。
まるでその視界には楓しか写っていないみたいに。
いや、間違いなくそうなんだろう
今、あいつの世界には楓しかいないに違いない
やがて、ギャラリーは少しずついなくなって。
最後の一人が帰ってしまうと、ようやく楓は蓮へと眼差しを向けた。
「…久しぶり、蓮くん…」
「…楓…」
静かに凪いだ水面のような声で、楓が言った。
ぴくり、と蓮の手が震えたけれど、それが楓に伸ばされることはなくて。
代わりに、なにかを耐えるようにぎゅっと拳が握られる。
そのまま、二人の間には沈黙が落ちて。
ただ互いの存在を確認するように、見つめあった。
なにやってんだよ、馬鹿っ…
さっさと楓を抱き締めてやれよっ…
思わず、そう叫びそうになって。
無意識に一歩足を踏み出したときに見えた、俺の横をさっと通り過ぎる影。
「え…ちょっ…」
止めようと伸ばした手は、宙を切り。
そいつは二人だけの世界に無理やり割って入ると、まるで自分の存在を誇示するように、蓮の腕にしっかりと自分のそれを巻き付けて。
勝ち誇ったように、にっこりと笑う。
「久しぶり、楓。…生きてたんだ?」
瞬間、楓の表情が凍りついたのが、わかった。
「……和哉……」
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