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歌詠鳥(うたよみどり)18 side春海

マンションへ戻る車のなか、楓は一言も話さなかった。 ただ考えに耽るように、流れ行く街の灯をぼんやりと見ていた。 その横顔からは、今の楓の心境は全く読み取れなくて。 俺は掛ける言葉を何一つ見つけることが出来ないまま、黙って車を走らせるしかなかった。 「はい、どうぞ」 部屋に入り、楓の好きなホットココアをマグカップに注いで渡すと。 それまでぼんやりと宙を見ていた楓は、それを受け取り、一口飲んで。 ふーっと息を吐き出し、微かに微笑んだ。 「ありがと、春くん。俺、また情けないとこ見せちゃったよね」 「情けないなんて、そんなことないよ」 隣に腰を下ろすと、甘えるように腕にしがみついてくる。 「そんなこと、思わないから。だから、無理しないで、もっと泣いていいんだよ?」 あの時みたいに 涙が枯れるまで泣いたっていいんだ 楓の悲しみ 俺が全部受け止めるから その柔らかい髪を指先で梳きながら促したけど、楓は小さく首を振った。 「ううん…大丈夫。ちょっとびっくりしちゃっただけだから…」 言いながら、俺の腕を掴んだ手にぎゅっと力をいれる。 「…春くんが、呼んだの?」 「…違うよ。あいつが、自分で楓を見つけたんだ」 「そう…」 楓は、そのまま俺の腕に顔を押し付けるようにして黙り込んでしまって。 なにかを考えている間ずっと、俺は楓の髪を撫でていた。 「…ほんとのこと、言ってもいい?」 どれくらい、そうしていただろうか。 長い時間、考え込んでいた楓が、ポツリとそう言った。 「もちろん」 「…すごく…嬉しかった…ずっと、会いたくないって思ってたはずなのに…顔見たら…嬉しくて嬉しくて…身体が、震えて…駆け寄って、抱き締めたくなっちゃった…ううん、あそこで和哉が現れなかったら、抱き締めちゃってたかも」 そうすればよかったじゃん なにも考えず あいつの胸に飛び込めばよかったじゃん そう言いたくなるのを、グッと堪えて。 俺は楓を包み込むように抱き締める。 楓が その胸の奥に蓮への思いを抱えつつ どんな覚悟で生きてきたのかを 俺は痛いほど知っているから だからこそ あそこで蓮の方から楓を抱き締めなきゃいけなかったのに あのバカ…… 「春くん、痛いよ」 「あ、ごめん」 ついつい、怒りに任せて腕に力が入ってしまったようで。 慌てて腕を緩めると、楓はクスクスと笑った。 とても、軽やかに。 「…蓮くんに、怒ってるでしょ」 「うん。すごく。今すぐぶちのめしてやりたいよ!」 「ふふ…それはやめてあげて。俺が…今までどんな生き方をしてきたのか考えれば、蓮くんのことを俺がとやかく言うことなんて出来ないんだから」 「それはっ…違うだろ!?楓は、仕方なかったじゃん!そうしなきゃ、生きていけなかったんだからっ…」 「そうだとしても…俺に蓮くんと和哉のこと、どうこう言う権利はない」 「…楓…」 怒りも悲しみも感じられない、静かな声に。 俺の怒りはシャボン玉みたいにパチンと弾けて消えて。 その代わりに胸が押し潰されそうな悲しみが、沸き上がる。 「…ありがとね…俺のために、怒ってくれて。春くんがいてくれるから、俺は今、ちゃんと立っていられるんだよ?」 俺を見上げた顔には、柔らかい微笑みが浮かんでいる。 そこには迷いや動揺なんて欠片もなくて ただ漣ひとつない静かな湖面のような静謐さを感じた 「…あのね。お願いが、あるんだ」 「お願い?」 「うん。春くんは、嫌かもしれないけど…」 そう言って。 俺の耳に唇を寄せ、小さな声で囁いた言葉に。 思わず、目を見開く。 「…楓、それは…」 「ダメ、かな?」 「…いいの?それは、楓が本当に望むこと?」 「うん」 動揺に、目の前がグラグラと揺れるけど。 楓の揺らぐことのないしっかりとした頷きに、腹を括って。 無理やり笑みを作った。 「わかった。やるよ。言ったでしょ?楓の望むこと、なんでもするって」 もう何度も繰り返した言葉を口にする。 「…ありがと、春くん」 楓は、湖に咲く一輪の蓮の花のように、美しく微笑んだ。

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