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歌詠鳥(うたよみどり)23 side蓮
「…綺麗…」
中庭に出ると、人影はなく。
虫の声だけが聞こえる静かな庭を並んで歩いていると、楓がうっとりと夢見るようにそう言った。
ライトアップされた庭には、今を盛りと梔子の白い花が咲き乱れ。
辺り一面に、梔子の甘く濃厚な香りが漂っている。
「でも、香りに酔っちゃいそう」
初夏の爽やかな風に柔らかい髪をなびかせ、淡く光る白い花に囲まれて微笑む楓は、月の精のように美しく。
触れれば消えてしまいそうに、儚い。
「…これは、楓の香りだよ」
「え?」
「楓のフェロモンは、この花の香りとよく似てるんだ。だから、ここに立つといつも、楓に抱き締められてる気がする」
なるべく重たく聞こえないように、さらりとそう告げると。
楓はほんの少し瞳を揺らして、顔を背けた。
「そんなの…自分じゃわかんないよ」
「そうか。そうだな。俺も、自分がどんな匂いなのか、知らないな」
そこで、会話が途切れてしまって。
この話を振ったのは失敗だったかと、内心焦っていると。
「…蓮くんは、レモンバームみたいに爽やかで…でも、とっても力強くて。俺が落ち込んでる時でも、悩んでる時でも、優しく包み込んで癒してくれるような…包まれるだけで不安なんて消し去ってくれるような…そんな香り」
思ってもなかった答えが返ってきて、思わず足を止めた。
数歩先で、楓も立ち止まって。
それまで梔子の花に向けていた視線を、戸惑いがちに俺に向ける。
さっきまで静かに凪いでいたその瞳は、何か言いたげにゆらゆらと揺らめいていて。
「…ずっと、おまえだけを想っているよ」
その揺らめきに突き動かされたように。
伝えてはいけないと思っていた言葉が、耐えきれずに零れてしまった。
静寂のなか、息を飲む音が聞こえた。
「おまえのこと、忘れたことなんてなかった。アメリカでもずっと、おまえだけを想ってた」
「…蓮、くん…」
一度堰を切った思いは、止める術さえ見つけられず、唇から零れていく。
「このホテルだって、おまえのことを想いながら作ったんだ。おまえに、俺がここにいることがわかるようにと」
「…だ、め…ダメ、蓮くん…」
両手を胸の前で重ね合わせて、ぎゅっと握り締め。
肩で大きく息をしながら。
楓がなにかに怯えたように首を振る。
「…愛してるんだ、楓。俺の気持ちは、あの頃と少しも…いや、あの頃よりもっと強くなってる」
「…やめて…俺は、もう…」
「おまえにもう、他に誰かいたとしても。俺には、楓だけだ。愛してる、楓。俺の番は、生涯おまえしかいない」
「…っ…ダメっ…」
その瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れた。
苦しげに歪む表情に、思わず手を伸ばせば。
楓はびくっと大きく震えて。
一歩後退ったかと思うと、踵を返して走り出そうとする。
「楓っ!」
触れたらいけないなんて、考えてる暇もなかった。
捕まえないと
今度こそ永遠に見失ってしまう
そんな焦燥感に駆られ。
咄嗟に駆け出し、その腕を掴んだ。
瞬間。
全身を雷に打たれたような衝撃が駆け抜けて。
辺り一面に、梔子の花によく似た濃厚なフェロモンが広がった。
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