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菊戴(キクイタダキ)3 side志摩

「志摩。ちょっと来い」 閉店後すぐに、ちょっと怖い顔したオーナーに呼ばれた。 後について、オーナーの部屋に入ると。 「…おまえ、いいのか?」 怒ったような困ったような、難しい顔でそう聞かれた。 「はい」 「はい、って…おまえ、セックスに恐怖心あったんじゃねぇのか」 「たぶん、大丈夫です」 「アフターは、強制じゃない。柊がやってたからって、真似して無理にやる必要はないんだぞ」 「わかってます」 「…あいつが、好きなのか」 その質問には、一瞬言葉に詰まる。 「…はい」 「…客だぞ」 「はい」 「あいつは、おまえの身体を金で買うんだ」 「…わかって、ます」 声が震えそうになるのを、お腹に力を入れて押さえた。 「九条財閥の、御曹司だ。俺たちとは、住む世界の違う人間だ」 そんなことわかってる あの人が 僕のことを都合のいい欲望の捌け口にしようとしていることも 僕なんかが あのすごい人に愛されるなんて夢でしかないってことも それでも 「…期待なんて、してません。大丈夫です」 一晩だけでもいいから あの人のフェロモンに包まれてみたい あの人のことが好きだから 初めて好きになった人だから オーナーは、長いこと僕の顔を見てたけど。 身体中の息がなくなっちゃうんじゃないかってくらい長い息を吐くと、きれいにオールバックに撫で付けた頭をがしがしと掻いた。 「…抑制剤とアフターピルは、絶対忘れんな。んで、事が終わったら、どんな夜中でもいいから連絡しろ。いいな?」 「はいっ!」 「なんか嫌なことされたり、酷いことされたら、すぐに逃げ出せ。店のことは、考えなくていいから」 「…?はい…わかりました」 頷くと、もう一度深い溜め息を吐いて。 おもむろに、ぎゅっと抱き締められる。 「…?」 なんで突然そんなことされたのかわからず、戸惑いながらもじっとしていると。 しばらく僕を抱き締めたオーナーは、ぽんぽんと二回背中を叩いて、ようやく離してくれた。 「ほら、鍵」 そうして、胸ポケットからカードキーを取り出す。 それは、かつて柊さんが使っていた部屋のキーだった。 「行ってこい。無理だけは、すんなよ」 「はいっ!」 不安そうな顔で、それでも送り出してくれたオーナーに頭を下げて、店を出て。 駐車場で待っていた車に乗り込むと、行き先も言わないうちに車は走り出す。 微かにエンジンの音だけが響く静かな車のなかで、流れていく景色を見つめながら。 期待と不安にぐっしょりと濡れた手のひらを握り締めた。 柊さん… いつもどんな気持ちでアフターに向かってたんだろう… 柊さんも最初は こんな風に不安だったのかな…? もし今 柊さんがここにいたら 僕になんて言ったのかな…? もっとたくさん いろいろ聞きたかったな…… 不意に、大好きな人の穏やかで柔らかな微笑みが頭に浮かんできて。 少しだけ、明るい夜の街が滲んだ。

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