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菊戴(キクイタダキ)5 side志摩
その後の記憶は
ひどく曖昧だ
久しぶりの抑制剤なしのヒートの熱に侵されて
怖くて
熱くて
気持ちよくて
もっともっと欲しくて
熱いものが奥に放たれると
身体も心も喜びに震えて
ひたすらに本能に引き摺られるまま
すごく濃いフェロモンに包まれて
獣のように絡み合ったことだけはおぼろ気に覚えている
「…え…?」
目を覚ますと、見たこともない白い天井が目に飛び込んできた。
「…どこ?」
起き上がって見渡すと、そこはあのホテルの部屋じゃなくて。
どこかのマンションの一室みたいだった。
僕の寝てるベッドはホテル並の大きさだったし、部屋はとんでもなく広かったけど。
「…龍さんの…家…?」
必死に思い出そうとしても、あのホテルを出た記憶はない。
記憶にあるのは、頭がおかしくなりそうな気持ちよさと、濃厚なカモミールのフェロモンの香りだけ。
「…今、何日なんだろ…?」
周りを見渡しても、時計らしきものはどこにもなくて。
スマホが入ってた僕の鞄も、見当たらない。
「…さむ…」
空調の効いた部屋は、裸の僕には少し寒くて。
起き上がった拍子にずり落ちたタオルケットを引き寄せると、ふわりとカモミールの香りがして。
心臓が、とくん、と音を立てた。
そのタオルケットにくるまったまま、もう一度ベッドに寝転ぶと、枕からも同じ匂いがする。
その匂いに包まれてると、胸があったかいものに満たされていって。
目を閉じ、幸せに浸っていると、カチャリとドアの開く音がした。
「起きたか?」
どこか不機嫌そうな声に、慌てて飛び起きる。
「あ、は、はいっ…」
「…ヒートが終わったんなら、さっさと服を着ろ。風邪引くだろ」
ネクタイを締めながら、呆れたように眉をひそめた龍さんに、それまであったかいもので満たされてた身体が、急激に冷めていく。
「あ、あの…僕、どうして…」
「悪いけど、説明してる暇はないんだ。おまえのヒートに付き合わされたせいで、5日も仕事休む羽目になったし」
「す、すみません…」
苛立った声で、言われて。
思わず、頭を下げて謝った。
「…これ。足りなきゃ、後で請求してくれ」
視線を落としたベッドの上に、ばらりと撒かれたお札に。
心が凍りついていく。
「帰るんなら、鍵はコンシェルジュに預けてくれればいい。おまえの荷物は、リビングに置いてあるから。また今度、店に会いに行く」
顔を上げられないまま動けない僕に、冷たい響きでそう言い渡して。
足早に去る気配。
程なくして、パタンと玄関の閉まる音がして。
僕はうつむいたまま、目を閉じ。
ボスンとベッドに沈んだ。
幸せ…だった…
大好きな人の熱い腕に抱き締められて
すごくすごく幸せだった
だけど
あの人にとって僕は
ただの男娼でしかなかった
「…わかってた、もん…」
そんなこと
最初っからわかってた
期待なんかしてない
期待なんか……
「っ…うっ…うぅぅっ…」
堪えようとしたけど、今ここには誰もいないことを思い出して。
彼の残り香で満たされたベッドの上で、投げられたお札を握り締めながら。
僕は涙が枯れるまで泣いた。
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