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大瑠璃(おおるり)1 side蓮
玄関のドアを開くと、聞こえてきたのはドビュッシーの「月の光」。
そういえば、今日は綺麗な満月が出ていたな…
帰り道、見上げた空に浮かんでいたその姿を思い出しながら、足音を忍ばせてそっとリビングに入ると。
ピアノに向かう、長く伸びた色素の薄い柔らかい髪が真っ先に目に飛び込んできた。
部屋を見渡すと、ダイニングテーブルの上には伏せたままの茶碗と箸が二組乗っている。
先に食べてていいって言ったのに…
そう思いながらも、俺を待っててくれたことに頬が勝手に緩んで。
抱き締めて、ただいまのキスをしたい衝動を抑えながら、音を立てないようにソファに腰を下ろした。
深く身を沈め目を閉じると、俺の世界は楓の奏でる美しい音と微かに香る梔子の匂いだけでいっぱいになる。
そのことが、とても幸せで。
そのまま、その幸せを噛み締めていると、ふと音が止み。
ペタペタと足音が近付いてきて。
ソファの右側が、揺れた。
あえて目を閉じたまま、じっとしていると。
ゆっくりと気配が近付いてきて。
でも、息のかかる距離で止まって。
しばらくの躊躇の後、そっと柔らかいものが頬に触れる。
「おかえり、蓮くん」
ようやく聞こえてきた望んだ言葉に、目を開くと。
なんだかいじけたような顔。
「ただいま、楓」
ニヤけた顔のまま、細い腰を掴んで引き寄せ。
微笑みの形に変わった唇に、そっと唇を重ねた。
俺が勤めるホテルから程近く、セキュリティも万全のマンションの上階を、楓の退院に合わせて購入した。
楓の不安を少しでも無くせるように、窓からホテルの外観が見える、日当たりのいい南向きの部屋。
リビングと寝室だけの1LDKというシンプルな間取りだが、広いリビングとアイランド型のキッチンの開放的な作りで、部屋のどこにいてもお互いの姿をすぐに見つけられるのが気に入って、ここを選んだ。
亮一の助言通り、家具類の選定は全て春海に任せたら、部屋の中は楓の好みだという落ち着いたアンティーク調の調度品で纏り、そこにこれだけはと春海と楓が住んでいたマンションから運んだ、アップライトピアノを置いて。
この小さな世界が
これから二人でずっと生きていく
俺たちだけのたったひとつの帰る場所だ
「邪魔した?ごめん」
「ううん。蓮くんを待ってる間に暇潰ししてただけだから」
啄むような軽いキスを何度も交わしながら、楓が柔らかく微笑む。
「それに、どんなにそっと入ってきても、蓮くんが帰ってきたのすぐわかるし」
そう言って、俺の首筋に鼻を当てると、くんくんと子犬のように匂いを嗅いで。
ぺろんと喉仏を舐めた。
「ちょっ…やめろ」
くすぐったさに身を捩ると、いたずらが成功したみたいな顔で笑うから。
俺は仕返しとばかりに、掴んだ腰をさらに強く引き寄せ、甘い香りをほんのりと漂わせているうなじに、軽く歯を立てる。
「あ、んっ…」
びくんっと震えた楓は、慌てたように身体を離した。
上目遣いに見上げた眼差しには、僅かばかりの欲情と。
そして不安が揺れている。
「…飯、食おうぜ。腹減ったわ。楓も、まだだろ?」
宥めるように触れるだけのキスを額に落とすと、小さく息を吐き出して。
「うん。すぐ、用意するね」
逃げるように、俺の腕をすり抜けていった。
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