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大瑠璃(おおるり)8 side志摩
『明日の10時に迎えにいく。用意しておいてくれ』
「これで、いいよね?」
なんの誘いかわからないけど、とにかくジーンズはまずいかもと、昔柊さんに買ってもらった黒のスラックスに白のシャツを着て。
振り向くと、那智さんはなんだか難しい顔でスマホを見つめていた。
なんかあったのかな?
「那智さん?どうかしたんですか?」
もう一度声をかけると、弾かれたように顔を上げ、無理やり取り繕ったような笑みを浮かべる。
「悪い、聞いてなかった。なんだ?」
「あ、いや…この格好で大丈夫かなって」
「大丈夫だろ。可愛い可愛い」
「か、可愛いって…」
そんな取って付けたような言い方…
やっぱ、なんかあったのかも
「連絡、誉先生からでしょ?なんかあったんですか?」
今日は診療所がお休みの日で。
先生はここ最近、そんな日はお友達のお医者さんに頼まれて、大きな病院で働いてる。
前はお休みの日は那智さんとのんびりドライブしたり、静かに本を読んでいたりと、ゆったりと過ごしていたのに、生活が変わってからとっても忙しそうで。
先生が体調崩しちゃわないか、心配になっちゃう。
「いや…大丈夫だ」
否定の言葉を口にした那智さんの表情も、どこか影を帯びてて。
「…どうしても、その病院に行かなきゃダメなの?この診療所だけじゃ、やってけない?それとも、お友達だから断れないんですか?」
やっぱり、誉先生が大変なんだと確信しながら、那智さんの隣に座ると。
「そうじゃない。なんでもないんだ。おまえが心配するようなことじゃないから」
那智さんは、また取り繕った笑顔を貼り付けて、やんわりと僕の言葉を否定した。
そんなふうに言われると、僕はもうなにも聞くことも出来なくて。
突き放されたような疎外感に寂しくなって、思わず視線を畳に落とすと、那智さんの大きな手がポンと頭を軽く叩いた。
「それより…本当にいいのか?おまえ」
「いいのか、って?」
「あいつと結婚すること…本当にいいのか?」
何度も繰り返される質問に、また顔を上げて那智さんを見ると。
不安そうな表情のなかに、龍さんへの嫌悪感がありありと見てとれる。
「…はい」
これまで何度もそうしたように、頷くと。
「あの男は…おまえとは、住む世界が違う。苦労するぞ。子どもだって、愛してくれないかもしれない」
いつもは「そっか」って、なにか言いたげにしながらも会話を終わらせるのに、今日ははっきりと龍さんを否定する言葉を口にして。
那智さんは悔しそうに唇を噛んだ。
「…わかって、ます…」
そんなの最初からわかってる
龍さんが僕のこと
これっぽっちも愛していないこと
子どもが出来たから
仕方なく僕と結婚することにしたこと
でも、それでも
「…嬉し、かったんです…義務感でもなんでもいいから、僕を…僕と、この子を受け入れてくれたこと…嬉しかった…」
僕は
あの人を愛してるから……
「志摩…あいつは、な…」
「自分でも!馬鹿だなってわかってます。あんな大きなおうちに入って、苦労しないわけないし。でも、大丈夫です。僕、この子のために一生懸命頑張りますからっ!」
那智さんがまだなにかを言うのを遮って。
捲し立てるように、言葉を繋ぐ。
「だからっ…僕のことは、心配しなくて大丈夫です!」
胸に渦巻く不安を、無理やり身体の奥底に押し込めて、笑顔を作ると。
僕のスマホが、ピロンと鳴った。
『着いたぞ』
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