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大瑠璃(おおるり)16 side蓮
「先週から、ほんの僅かだけどホルモン値の上昇がみられるね。恐らく、今後一週間以内にヒートがくるはずだ。だから、精神的に不安定になってるんだろうね」
カルテを見ながらそう言った先生は、おもむろに真剣な眼差しで俺を見た。
「どうする?今回のヒート、回避したいなら、あの開発途中の抑制剤を出すけど。容量さえ守れば、大丈夫だろうから」
「…先生は、どうお考えですか?」
俺は答えを出さず、敢えて先生の意見を求める。
「うーん…こればっかりはね…どう転ぶか、僕には判断しかねるな。君は運命の番だ。もしかしたら、大丈夫かもしれない。でも、もしも君を受け入れられなかったら…楓はきっと、もっと深い傷を負ってしまう。それを考えると、回避することを選ぶ方が良策のような気がするけど…だからといって、時間が経てば受け入れられるのか、という保証はないしね…永遠にヒートを回避することは出来ないから…」
ごめん、医者なのにこんな中途半端なことしか言えなくて、と眉を下げる先生に、俺は首を横に振った。
「十分です。後は…楓と二人で話し合って、決めます」
「うん。そうだね。それがいい。無理強いだけは、しないでやって欲しい」
「わかっています」
頷くと、先生はカタ、カタ、と覚束ない手付きでキーボードを打ち始めた。
「一応、楓用の抑制剤と蓮くん用の抑制剤と…あと、極軽い発情誘発剤も処方しておくね」
「え…誘発剤も、ですか?」
「突然ヒートが始まるよりも、この薬を使ってヒートを誘発する方が、心の準備をする分だけ負担は少ないかもしれない。ま、使うかどうかは、全て君たちに任せるよ」
「わかりました」
「それから、アフターピルも。可能性は低いが、ないとは言いきれない。もしそうなったら、今の楓には負担が大き過ぎる。これは、忘れずに」
「はい」
「それから…これは確認なんだけど、もしもヒートを上手く乗り切れたら…楓を番にするつもりはあるかい?」
さらりと軽い口調で訊ねられ。
言葉に詰まる。
「…わかりません。もちろん、俺は楓を番にしたいと思っていますが、今の楓がそれを望むのか…俺にはまだ、判断つかなくて…」
なんとか言葉を選びつつも、そう答えると。
先生はふわりと優しい微笑みを浮かべた。
「これは、今までみんなに秘密にしていたんだけど…実は僕、那智の同意を得る前に番にしちゃったんだよね」
そうして、椅子ごと俺に身体を近付け、耳元で小声で囁く。
「ええっ!?」
「君も知っての通り、あいつには運命の番がいただろう?だから、絶対に誰とも番になんかならないって抵抗してたんだけど…我慢できなくてね。噛んじゃった」
「噛んじゃった、って…」
深刻な話のはずなのに、先生の口振りはどこか楽しそうで。
普段の誉先生の穏やかでちょっと気弱そうな佇まいからは考えられない話に、俺は呆然とするばかり。
「そ、それで…?那智さんは怒らなかったんですか?」
「そりゃあもう、ヒートが終わったら烈火のごとく怒ったよ。グーで殴られたし」
「…でしょうね…」
「でも…今、僕たちは幸せだよ」
そう言って俺を覗き込んだ瞳には、愛しい者を守りぬこうとする強い光が見えた。
「あそこで那智を番にしなければ、あいつはずっと失った魂に引き摺られたまま、苦しみ続けていたかもしれない。だから、僕は僕のしたことを後悔したことはないよ。僕は、運命の彼には敵わないかもしれないけれど、それでも僕の精一杯で那智を愛してきたし、これからもずっと愛し続ける。それが、唯一那智を救う方法だと、わかっているからね」
αの自信に満ち溢れたその姿は、俺には眩しくさえ思えて。
「まぁ、この話は頭の片隅にでも置いといて。こんな人たちもいたな、ってくらいな感じで。君たちは、ちゃんと話し合って決めなよ?」
軽い口調なのに、先生の言葉は途轍もない強さを内に秘めていて。
あの那智さんの番だ
生半可な優しいだけのαでなんか、あるはずがなかった
「どうするかを決めたら、一応連絡だけくれるかな?もしヒートに入るなら、その間は僕もすぐに連絡つくようにしておくから」
「わかりました。よろしくお願いします」
苦しみ、踠 きながら生きてきた楓の傍に、こんなにも優しく頼もしい人たちがいてくれたことを。
俺は今更ながらに、深く感謝した。
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