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大瑠璃(おおるり)26 side楓

シャク…シャク… 軽快なハサミの音と共に、長かった髪がハラリと床に落ちて。 それと同時に、過去の苦しみや哀しみがほんの少しずつだけど、身体から昇華されていくような気がした。 「あらぁ…」 後ろ髪にハサミを入れていた店長さんが、感嘆とも呆れともつかないような声を上げる。 「ずいぶん、思いっきり噛まれたわねぇ」 続いて、クスクスと小さな笑い声が響いて。 恥ずかしくなった俺は、片手でうなじを隠した。 「やっぱ…すごいです?」 「うん。私もいろんな噛み痕見させてもらったけど、こんなくっきりはっきりしたのは、なかなか見ないわぁ。これ、相当痛かったんじゃない?」 「いや…え、と…」 正直、痛みなんて覚えてないんだよね… なんか、ものすごく気持ちよかったのは朧気に覚えてるんだけど… 「…ふーん…?」 鏡越し、意味ありげにニヤリとされて。 俺は慌てて視線を逸らす。 「でもぉ、こんなに強く噛むなんて、相手のαは相当な執着心の強い奴ね!きっと、楓ちゃんのことが欲しくて欲しくて仕方なくて、絶対誰にも渡したくなかったのね。だって、こーんな痕つけられちゃ、他のαなんて近寄ることも出来なさそうだもん」 噛んだのが誰か、なんて薄々わかってるくせに。 店長さんはとぼけた口調でそう言って。 「羨ましいわ」 ぽつりと、呟いた。 「えっ…?」 その台詞に驚いて、鏡の中の店長さんに視線を戻すと。 男の人だけど、マリア様みたいな慈愛に満ちた微笑みで俺を見つめていた。 「だって…あんなに強いαの蓮と番になれるのは、Ωである楓ちゃんだけなのよ?それは、蓮を慕うβたちがどんなに願っても、絶対に叶わないことなの。羨ましがられるに決まってるじゃない?」 羨ましいなんて そんなふうに思われることがあるなんて 考えたこともなかった Ωは蔑まれ 虐げられ 服従させられるだけの存在 ずっとそう思っていたから… 「だから、ちゃんと背筋を伸ばして」 少しだけ苦しくなった俺の肩を掴んで、店長さんが背筋をまっすぐにする。 「胸を張って堂々としてればいいの。Ωだからって、卑屈になる必要なんて髪の毛ほどもない。だって、あの蓮をメロメロにできるのは、楓ちゃんだけなんだから」 彼の言葉は、薄汚れた娘をシンデレラに変えた、魔法使いのそれのようで。 俺は強くなるための勇気を、店長さんにもらった気がした。 ちょうどカットが終わる頃、蓮くんが戻ってきて。 俺の姿を見ると、本当に嬉しそうに笑ってくれた。 「ねぇ…あの店長さんと、どういう知り合い?」 絶対また来てね!って言ってくれた店長さんに頭を下げ。 風通しのよくなった首筋に若干の違和感を感じながら、車に乗り込むと。 気になっていたことを、蓮くんに訊ねた。 だって なんかずいぶん昔から蓮くんのこと知ってるような感じがしたんだもん それにあの言葉… もしかして、あの人蓮くんのこと… 「あぁ。昔、お父さんに連れられていったパーティーで知り合ったんだ。旧華族の大地主の跡取りだったんだけど…家を飛び出して、働きながら美容師の資格取って、最近自分の店を持ったんだって。あの店に入ったのはたまたまだったんだけど、驚いたよ。お互い家を捨てた者同士、こんなこともあるもんだなって、なんだか嬉しくてな。あいつはβだけど、Ωにすごく理解がある奴だし、Ωだからって色眼鏡で見たりしないからさ。だから、楓も安心してカットしてもらえると思ってさ」 「…家を出たって…どうして?」 「さぁ…どうも、二次性別の関係で家を出たっぽいけど、詳しくは聞いてないんだ。話したがらないものを、無理に聞く必要もないだろ?それを知ったところで、あいつの何かが変わる訳じゃないんだから」 「…うん」 その言葉の裏に秘められた蓮くんの強さに、胸が熱くなる。 俺がどんな道を歩んできたか知っても 蓮くんは変わることはなかった きっと蓮くんには その人の本質がなんのフィルターもかからずに見えるんだ それはきっと 蓮くんがすごくすごく強い人だから 俺も 蓮くんみたいには無理でも もっと強くなりたい 蓮くんの番として 恥ずかしくないように 「…?どうした?楓」 「ううん、なんでも…ただ…」 「ただ?」 「蓮くんがすごく好きだなって、そう思っただけ」 そう言うと、蓮くんは目を見開いて。 それからほんのりと頬を赤く染めた。

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