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鶺鴒(セキレイ)1 side志摩
3ヶ月後──────
「…もう、いいか?」
名残惜しく、がらんとした部屋の中を見つめていた僕に、那智さんが後ろから言った。
「あ…はい」
ここに住んでたのは3年弱
そのなかでも柊さんと一緒に過ごしたのは半年ちょっとしかないけど
この場所には僕の全てが詰まってた
柊さんに拾われて
毎日笑いながら二人で過ごした
新しい自分の始まりの場所
僕は今日
柊さんとの思い出の詰まったこの場所を出て
また新しい自分が始まる場所へと引っ越す
柊さんがいまの僕を見たら
何て言うのかな?
柊さん…
会いたいよ……
いまどうしてるの……?
無意識に、ほんの少しだけ出てきたお腹に手を当てる。
「柊さんのピアノ…大事に弾いてくれるといいね」
「ああ。そうだな」
部屋の中の物の処分は、身重の僕に代わって那智さんが全部引き受けてくれて。
今朝、最後に残ってたピアノも那智さんが支援しているというΩ専門の養護施設へと引き取られていった。
「じゃあ、行こうか。向こうには、夕食までには着いた方がいいんだろ?」
「はい」
促され。
後ろ髪を引かれる思いで、小さなボストンバッグ一つだけを手に、その部屋を後にする。
「ったく…自分の嫁くらい、自分で迎えにこいっつーの」
小さな車に乗り込み。
シートベルトを着けながら、那智さんがぼやいた。
「仕方ないです。龍さん、先週からイギリスに出張中だから」
「わかってんなら、引っ越しは帰国してからにするとか、方法はあるだろうが」
「帰国しても、その足でまたどこかに行かなきゃいけないみたい。あんなにおっきな会社の社長さんだもん。僕のことなんか、構ってられないんだよ」
「…なんかって…おまえの腹の中にいるのは、自分の子どもじゃねぇかよ…自分の嫁や子どもより、仕事優先かよ…」
ぶつぶつといつまでも文句を口にしながら、エンジンをかけ、車を発進させる。
その不愉快そうに歪められた横顔から、僕は相槌を打つことも出来ずに目を逸らした。
結局、那智さんの中での龍さんの印象は、少しも良くなることなかったな…
そのことを僕がどうこう言うことなんて出来ないけど
それでもやっぱり寂しいな…
「…悪い。ちょっと言い過ぎたな」
視線を膝の上で組んだ手に落とした僕に、那智さんがバツの悪そうな声で謝った。
「ううん…大丈夫、です。那智さんがそう思うのは、仕方ないから…」
お店のルールを破って那智さんをがっかりさせたのは
僕と龍さんだから…
「…おまえは、悪くない…悪いのは…全部、あいつなんだ…」
忌々しげな声音に。
胸の深いところがツキンと痛んだ。
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