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鶺鴒(セキレイ)9 side蓮

玄関を開けると、まだ明かりが点いていて。 でも、なんの物音もしないからそーっとリビングへ入ると、楓はソファに行き倒れたみたいな格好で健やかな寝息を立てていた。 ピアノの蓋は開けっ放し、楽譜は開きっ放しのまま放置されていたから、ギリギリまでピアノを弾いてて、眠気に耐えられずにここへ辿り着いたんだろう。 「ここまで来るんだったら、ベッドまで頑張れよ…」 手を洗い、スーツを着替えて。 ピアノの蓋を閉じ、楽譜を片付ける。 本当は 大好きなピアノを生かせる仕事をさせてやりたい ピアノを弾いてるときの楓は どんな瞬間の楓よりも輝いているから もしもあの時ヒートが来なければ 今頃はもしかして、ピアニストとしての仕事が出来ていたかもしれないのに 「…伊織に、相談してみるか…」 あの人なら人脈も多いし なにか良い仕事を思い付くかもしれない …楓のことをあの人に頼むのは、本当は嫌なんだけど… ついつい漏れてしまう溜め息を吐きつつ、ソファで眠る楓を抱き上げた。 「ん…れん、くん…?」 「ただいま、楓」 ぼんやりと目を開いた楓のおでこにキスをすると。 はっとしたように一瞬で覚醒して。 それから気まずそうに目を逸らした。 そりゃそうだ あれから3日もまともに口利いてないんだから 「降ろしてよ。自分で歩ける」 「ダメ」 俺の腕を逃れようとするのを、しっかりと捕まえて。 ゆっくりとベッドに降ろした。 ますます気まずそうに顔を背ける楓に、肌掛けをかけ、頭を撫でてやる。 「…ごめんな。本当は、おまえのやりたいこと、やらせてあげたいんだけどさ…まだ、怖いんだ」 恥を忍んで、本音を吐き出すと。 楓はゆっくりと背けていた顔を俺へと向けた。 「怖い…?どうして…?」 「この部屋を出た瞬間、おまえがまた俺の前から消えてしまいそうで…怖い」 「そんなこと…しないよ?」 「わかってる。おまえを信じてないわけじゃない。でも、俺たちの意志とは関係のない、誰かの悪意によっておまえがまた傷付くようなことになったら、今度こそおまえが消えてしまいそうで…そうなるくらいなら、いっそこの部屋に閉じ込めてしまいたいって…そう思ってしまうんだ」 ずっと、抱え込んでいた不安を吐き出す俺を、楓は澄みきった眼差しでじっと見つめて。 「…そんなこと、しない。だって約束したでしょ?これからずっと、側にいるって」 ふわりと天使のように微笑むと、俺に手を伸ばす。 「…楓…」 「なにがあっても、もうひとりぼっちじゃないってわかってるから…例え誰かに悲しいこと言われても、蓮くんだけは、俺のこと優しく包んでくれるって知ってるから。だから、俺はずっとここにいるよ。蓮くんの腕の中に。絶対に、消えたりしない」 そう言いきった楓の瞳は、再会した頃の儚さが消え。 凛とした強さを湛えていた。 「…来て、蓮くん」 そうして。 その真っ白な美しい羽のような腕を、俺に向かって広げる。 「俺はちゃんと蓮くんの腕の中にいるって…確かめて?」

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