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鶺鴒(セキレイ)14 side蓮

「楓、ちょっといいか?」 後片付けが終わり、エプロンを外しながらキッチンから出てきた楓を、手招きした。 「なに?」 「いいから、そこ座って」 いつもの左隣ではなく、テーブルを挟んだ向かい側を指すと、楓の頬に微かな緊張が走る。 恐る恐る椅子に座り、肩を小さくして。 不安そうに瞳を揺らしながら、俺を見つめた。 その怯えた様子に、つい抱き締めて安心させてやりたくなるけど。 一応仕事の依頼だからと、無理やり顔を引き締める。 「な、に…?」 「あのな、楓。楓に…いや、ヒメに、仕事の依頼がきてる」 「えっ…?」 「コンチネンタルメープルホテル東京で、ウェルカムサービスの一環として、ヒメにピアノ演奏してもらいたい、っていう依頼だ」 俺は和哉が用意した概要の書いてある書類を、楓の前に差し出した。 「え…え?なに?どういうこと?」 楓はそれを読もうともせず、うろうろと視線を揺らす。 「コンチネンタル…って、蓮くんのホテルでしょ?」 「ああ。うちのホテルと、出来れば専属契約してもらいたい」 「え?は?なに?なんで?」 「ちょっと落ち着いて、楓。とにかく、これを読んでみて」 軽いパニックを起こしてる楓に、無理やり書類を押し付けると。 楓は恐る恐るそれに視線を落とし、長い時間をかけて読んだ。 「…なにか、不明な点は?」 ようやく顔を上げた楓に訊ねたけど、楓はどこかぼんやりとした眼差しで俺を見つめる。 「楓…?」 「あの…そもそも、なんで俺なの?俺、ちゃんとしたピアニストじゃないよ?ただ、趣味で弾いてるだけだし…。こういうのって、もっとちゃんとした人に頼むもんでしょ?」 「そんなことはない。ヒメは、すごい人気のピアニストだよ」 「は…?」 「ほら、これ見て」 俺はスマホで動画サイトのヒメチャンネルを開いて、楓の前に置く。 「えっ!?なにこれっ!?」 「春海がずいぶん前に作ったんだ。俺も、これを見て楓の居場所を知った」 「…こんなの…いつの間に…」 「登録者数は、現在120万人。コメント欄も、ヒメの復帰を望む声で溢れてる。これ見たら、ヒメがどんなに人気のピアニストか、わかるだろ?」 言いながら、ずいっと楓の前にスマホを滑らせると。 あの日のノクターンが流れるそれを、楓は持ち上げて。 画面をスクロールしながら、届いたコメントに目を通した。 「こんなに…?」 「うん。みんな、ヒメのこと待ってるんだよ。だから、もう一度ヒメとして弾いてみないか?うちの従業員たちもヒメのファンが多くて、もし契約してくれればすごく喜ぶと思う。もちろん、俺も」 「蓮くん、も…?」 「おまえの音、俺だけが独占するのも悪くないけど。やっぱりみんなに聞いてもらいたいんだ。なによりも俺の心を震わす音を、もっとみんなに知って欲しいと思う」 手を伸ばし、スマホを持った手を上から包み込むように握ると。 楓の瞳が、まだ不安そうに揺れる。 「でも…いいの?俺、仕事、しても…」 「ごめんな。俺があんなこと言ったからだよな。でも、ホテルで働いてくれるなら、俺もすぐ側にいられるから安心だし。なにより、好きでもないことをするより、おまえが好きなことを仕事にしてくれるのが一番嬉しい。ピアノを弾いてる時の楓は、最高に綺麗だからさ」 「蓮くん…」 「すぐに答えを出さなくてもかまわない。ゆっくり、考えてくれていいから」 「…うん。わかった。ありがとう」 俺の手をきゅっと握り締めて。 楓はまだ戸惑いを抱えたまま、それでも小さく頷いた。

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