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鶺鴒(セキレイ)16 side蓮

「あのっ!私、ヒメさんの大ファンで!銀座まで何度か聞きに行ったこともあります!一度、声をかけてもらったこともあって…その日は興奮で眠れなくって…握手してもらった手、洗うのすごい嫌だったんです!」 「あ…そ、それは、すみません…」 興奮気味に話をする女性を見て、彼女があの時俺にヒメの動画を見せてくれたスタッフだったことを思い出した。 「謝らないでください!私、本当に嬉しかったんですから!ヒメさんのピアノ、すっごい素敵で…仕事でちょっとやなことがあったり、彼氏と喧嘩したりしたときに聞いて、何度も癒されて…本当に大好きなんです!」 「あ、ありがとうございます…」 「でも最近、新しい動画上がらなくなって、ヒメさん重病説とか流れちゃってて。銀座のピアノもなくなっちゃうし…もうヒメさんのピアノ聞けないのかなって悲しかったから、このホテルで契約するかもって噂を聞いて、本当だったら嬉しいなって思ってたんです!ここにいるってことは、またヒメさんのピアノ、聴けるってことですよね!?」 「あ、えと…それは、その…」 機関銃のように話す彼女の勢いに押されて、楓が助けてって視線を俺に投げる。 俺より雄弁にヒメの必要性を語ってくれる彼女の言葉をもっと楓に聞いて欲しいけど、さすがに助け船を出してやろうかと一歩踏み出したのと同時にドアが開いて。 足早に彼女に近づいた和哉が、持っていたバインダーを彼女の口元に翳した。 「ストップ。そこまでにしてください。まだ、ヒメさんとは契約が済んでいないので」 「ふ、副支配人っ!す、すみませんっ!」 和哉の冷たい視線を受けた彼女は、一瞬にして青ざめて。 慌てて頭を下げる。 「正式な契約が済んだら、スタッフ全員にきちんと説明します。それまでは、不用意なことは言い触らさないこと。いいですか?」 「はいっ!すみませんっ!」 「わかったら、さっさと持ち場に戻ってください」 「はい!失礼します!」 しゃきん!と背筋を伸ばして、お辞儀をした後。 逃げるように部屋を出ていった。 「全く…どこから噂が出回ったんだか…。申し訳ありません。うちの社員が、失礼いたしました」 和哉は、ドアが閉まるのを見送って、大仰な溜め息を吐いたあと、楓に向き直って頭を下げる。 「あ…ううん、大丈夫、です…」 呆気に取られたようにそのやり取りを見ていた楓は、突然ぷっと可笑しそうに吹き出した。 「なんか…懐かしい。昔も、こうだったよね」 そうして、俺と和哉の顔を、楽しそうに見比べる。 「俺がいつも和哉に怒られてて、蓮くんがいつも助け船を出してくれて。それを、春くんと龍が…」 そう、言いかけて。 はっと息を飲み、顔を強張らせた。 「楓っ…!」 反射的に駆け寄って、手を握ると。 その手は小刻みに震え、苦しそうに浅い呼吸を繰り返していて。 思わず、腕の中に強く抱き寄せる。 「…ごめ…っ…」 「謝んなくていい。大丈夫だから、落ち着いて」 ガタガタと震える背中を何度も何度も擦ってやると、震える手が俺のシャツをぎゅっと握った。

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