306 / 566

鶺鴒(セキレイ)17 side蓮

しばらくそうしていると、楓は少しずつ落ち着いてきて。 震えが止まると、そっと俺の腕を抜け出した。 「…ごめん…取り乱して…」 「気にしないでいい。我慢とか、しなくていいから。もう少し抱き締めていようか?」 「ううん、もう大丈夫。和哉も…ごめん」 まだ青白い顔に、無理やり作った笑顔を張り付けて。 それを和哉の方にも向ける。 「いえ。…今日の契約は延期にしましょうか。特に急ぐ必要もないですし。楓の体調の良い時に仕切り直しましょう」 和哉は、彼にしてはとんでもなく柔らかい声と表情でそう言ったけど。 「いや、今日でいい。蓮くんも和哉も、貴重な時間を割いてくれてるんだもん。俺の為に仕事滞らせるわけにはいかないでしょ」 楓は、さっきまでの儚い姿とは打って変わって、しゃんと背筋を伸ばし、凛とした佇まいでまっすぐに和哉を見つめた。 その変化に、和哉は微かに目を見張って。 それからなぜか、唇の端に微笑みを乗せる。 「あなたって、昔からそうですよね」 「え?」 「いつもぽやーんとしてて頼りなさげに見えるのに、時々意外にしっかりしたこと言うじゃないですか。本当、俺には理解不能です」 「ぽやーんって…それ、よく言われたなぁ、昔」 「昔?今は違うんですか?」 「今は…もうちょっとしっかりした…はず」 楓が最後は自信なさげな小さな声になったのに、笑みを深めて。 「では。契約にしましょうか」 俺たちの向かい側に、腰を下ろした。 「…蓮さん」 そうして、今度は眉を寄せて俺を見る。 「なんだ?」 「なんで、そっち側なんですか?」 「今日の俺は、ヒメの付き添いだ」 「…そうですか。わかりました」 ちょっと…いや、だいぶ呆れがちな溜め息を吐いて。 手に持っていたバインダーを開き、楓の前に差し出した。 「こちらが契約書です。読んでいただいて、これでよろしければ最後のページにサインをお願いします」 それを受け取った楓は、パラパラと数枚の紙を捲って。 助けを求めるような視線を、俺に向ける。 「どこ見ればいいの?」 「どこって…全部読むだろ。契約書、交わしたことないの?」 「ないよ、そんなの」 「え?勤めてた店は?契約書とか、なかったのか?」 「ないよ。そもそも、あの店は俺と那智さんで始めたものだし」 「春海のとこは?」 「わかんない。全部春くんに任せてたもん」 「…そうか。じゃあ、今回はちゃんと読んで。自分自身のことだろ。納得いかないところは、ちゃんと交渉しないと駄目だ」 「こんな難しいの、俺の頭じゃ読んでもわかんないよ」 「いや…でも、大事なことだからさ…」 「この契約書って、蓮くんはもう確認してるんでしょ?だったら、俺はそれでいいもん。蓮くんが、俺に不利なことするはずないでしょ?」 「それはそうだけど…」 「あの…」 俺たちの会話を、和哉が顰めっ面で遮った。 「イチャイチャするんなら、俺のいないところでやっていただけます?」

ともだちにシェアしよう!