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鶺鴒(セキレイ)22 side蓮
少し早めにフロントロビーへ降りると、もう既にピアノの周りはたくさんの人で何重にも人垣が出来ていた。
「え…なに…?」
びっくり顔で足を止めた楓の背中に、そっと手を添える。
「ヒメが今日から復帰するって情報が流れてたみたいでさ…たぶん、うちのスタッフだな、ごめん」
「…あれ、もしかして俺を待っててくれてる、の?」
「そうだよ。みんなヒメが戻ってくるのが待ちきれなかったんだよ」
そう言って顔を覗き込むと、信じられないように目を大きく見開いて、人垣を見つめていた。
どうする?
無理なら無理って言ってもいいんだぞ?
口元まで出かけた台詞を、すんでのところで飲み込む。
それを決めるのはヒメだ
俺が誘導しちゃ駄目だろ
つい口を出したくなるのを堪えながら、茫然と佇む楓を見守っていると。
「あ!ヒメちゃん!」
人垣の中から、小さな影が飛び出した。
「…みーたん!?」
こちらへ一直線に駆けてくるその子に、思わず、といった感じで楓が両手を広げて。
その子は迷うことなく、広げられた腕の中に飛び込んでくる。
「ヒメちゃん、病気治ったの?」
「え?病気?」
「うん。ヒメちゃん、もうすっかり病気治ったよ」
抱き上げた美弥ちゃんの言葉に、きょとんとする楓に代わって答えると。
「あ!いいにおいのおにいさん!」
俺へと視線を向けた美弥ちゃんは、大きな声で俺のことをそう呼んだ。
「え…いいにおい…?」
訝しむように眉を寄せた楓の腕の中で、美弥ちゃんは俺を手招きして。
「おにいさん、ヒメちゃんとつがいになった?」
こそこそ話をするように、俺の耳元でそう訊ねる。
「うん。ヒメちゃんと番になったよ。ほら」
微笑んで、楓のうなじを指差すと。
嬉しそうに笑い返してくれた。
「みーたんもね、パパがかえってきたの!」
「そっか。やったな。いいこにしてたもんな?」
「うん!おにいさんも、いいこ!」
「ああ」
左手を出すと、ハイタッチするようにみーたんの小さな手が俺の手にパチンと重なって。
楓は、そんな俺たちを見て柔らかく微笑んでいる。
「じゃあ…ヒメちゃんお仕事だから。みーたん、ヒメちゃんを見守っててくれるか?」
「うん!ヒメちゃん、がんばってね!」
そう促すと、美弥ちゃんは楓の頬にチュッとキスをして。
ぴょんと楓の腕を飛び降り、少し離れたところに立っていた男性の元へと駆け寄った。
その人は俺たちへと頭を下げ、ひょいと美弥ちゃんを肩車する。
隣には、幸せそうに微笑む美弥ちゃんの母親の姿もあった。
「…なんか、いっぱいパワーもらっちゃった」
「うん、そうだな」
3人の仲睦まじい様子を、楓は嬉しそうに見つめて。
一度、深く深呼吸すると、きゅっと顔を引き締める。
「…じゃあ、行ってくる。見ててね、蓮くん」
前に一歩踏み出しながら振り向いた、その顔に浮かんだのは。
今まで俺の知らなかった
静かな、でも揺るぎない強さを湛えた微笑み
そんな顔
今までどこに隠してたんだよ…
「ヒメちゃん、お帰り!」
「戻ってきてくれて、ありがとう!」
胸の奥が、ひどく熱くて。
ギャラリーから上がる歓声を受けながら、力強く前に進むその白い羽の生えたような背中が、少しだけ滲んで見えた。
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