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白鷺(しらさぎ)1 side楓

ホテルでのお仕事を始めて約2ヶ月。 最初の数日は人も多くて少し緊張したものの、思っていたよりもすぐに緊張は解けて。 今は、毎日がとても楽しい。 物心ついた時から、ピアノを弾いてはいたけれど。 幼い頃の俺にとって、ピアノはお父さんとの唯一のコミュニケーションツールのようなものだった。 お父さんは、いつもどこか遠い目をしていて。 すぐ傍にいても、俺へとその目が向くことはあまりなかった。 そんなお父さんが、唯一俺を見てくれるのが、俺がピアノを弾いてる時で。 だから、幼い俺はただ、お父さんに自分を見て欲しくて、ピアノを弾いていただけだった。 お父さんが死んで、九条の家に来てからは、それが蓮くんに代わった。 蓮くんが俺のピアノを聞いて涙を流してくれたあの日から、俺は蓮くんの為だけにピアノを弾いていた。 お父さんに置いていかれて、ひとりぼっちで途方に暮れていた俺を、蓮くんは優しく包み込んでくれた。 だから、彼が喜んでくれるなら、いくらでも弾いた。 蓮くんが喜んでくれる限り、俺があの家にいる価値が認められているような、そんな気持ちだったように思う。 蓮くんと離れ、またひとりぼっちになって。 辛くて苦しくて寂しくて、何度も死にたいって思ってた時も。 ピアノを弾いてるときだけは、ほんの少しだけどその苦しみを忘れることが出来た。 ピアノを弾いていれば、お父さんがすぐ傍にいてくれるような気がして。 蓮くんとの優しい記憶が、俺を抱き締めてくれるような気がして。 ただひたすらに、自分の心と向き合うように。 俺は俺自身のためだけに、ずっとずっとピアノを弾いてきた。 だから、自分のピアノが誰かを笑顔にするなんてこと、考えたことがなかった。 でも、今は。 俺のピアノを聞きにきてくれる人はもちろん、俺のことなんて全然知らずにホテルを訪れた人が、俺のピアノを聞いて笑顔になってくれることが、嬉しい。 「癒されたよ」とか「疲れてたけど、元気もらえた」とか言ってもらえると、本当に幸せだと思えるし。 俺のピアノで誰かひとりでも幸せな気持ちになってくれるのなら、俺はこの先もその誰かのために、ずっと弾き続けていきたいと。 今は強くそう思うんだ。 「…うん。すこぶる、良い傾向だ」 俺の話を相槌を打つこともなく聞いていた亮一さんは、そう言ってニッコリと笑った。 「え、そうなの?」 「うん。誰かを笑顔に出来るってことは、今、楓自身が自然に笑顔になっているからだよ?悩んでる人や自分が不幸だと思ってる人を見て、楓は笑顔になれる?」 「…なれません」 「だろ?人を幸せにするためには、まず自分が幸せでなければ無理なんだ。人は、自分自身が満たされて、初めて他人に目を向けることが出来るからね。今まで自分のために弾いていたピアノを、誰かのために弾きたいって思うことはつまり、今の楓は幸せをちゃんと自分で感じられている証拠だよ。この先も順調に蓮の愛に包まれていれば、もっと精神的に安定してくるはず。だから、思いっきり甘やかされて、愛してもらうといいよ」 最後の言葉は、すごく恥ずかしかったけど。 亮一さんがすごく安心した微笑みを俺に向けるから。 「…はい。ありがとうございます」 俺は小さな声でそう言って、頭を下げた。

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