325 / 566
白鷺(しらさぎ)8 side楓
涙が渇れるまで泣いた、その日から。
ずっと胸につかえていた重石のようなものが、少しだけ軽くなったような気がした。
だからって、龍のしたことを許せるわけじゃないけど。
蓮くんの言うように、もっと時が経って、憎しみが薄れる…そんな日が、いつか来てもいいのかもしれないと、ほんの少しだけ、そう思えるようになった。
その日の仕事を終え。
ピアノの蓋を閉めて、顔を上げると。
すぐ側に若い女性が立っていた。
「あ…」
どこかで見覚えのある顔だと思った次の瞬間、その人が最近時々ラウンジから俺を睨むように見ていたαの女性だと気付いた。
「今日も素敵でしたわ、ヒメさん」
そのαの女性は、真っ赤なルージュを引いた唇を、にっこりと笑みの形に変える。
その瞳の奥に、俺を嘲るような光を隠そうともせずに。
「…ありがとう、ございます」
その鋭い刃のような眼差しに、一瞬怯みそうになったのを、お腹に力を入れて堪えた。
どうしてこんな目で見られるのかわからないけど
なんとなくこの女性 には負けたくない
「動画サイトで有名な方なんですってね?私、てっきりこういう場所で弾くのはプロの方かと思ってたんですけど…素人の、しかもΩだなんて」
その誰もを魅了するような微笑みとは裏腹に、言葉には鋭い棘が混じる。
「まぁ、その割には素敵な演奏でしたわ。このホテルは、Ωを優遇していることで有名ですものね。あなたも、このホテルのプレゼンテーションの一環なんでしょう?Ωの素人のピアニストなんて、話題性抜群ですもの。さすがは蓮だわ。Ωを上手に駒に使って、このホテルの評判を上げてるのね」
その真っ赤な唇から、蓮くんの名前が出た瞬間。
身体の奥から、激しい怒りが沸き上がってきた。
俺のことはなんと謗られてもかまわない
でも蓮くんのことを貶めるようなことは許せない
蓮くんはそんなことしない
そんな人じゃない
そう言いたいのを、唇を噛んで堪える。
ここで俺が言い返しても、事態が好転することはないとわかってるから。
「まぁ…怖いお顔」
女は楽しげに目を細め、声を立てて笑った。
「Ωのくせに、αをそんな目で睨むなんて…Ωって、本当に下品。身の程をわきまえるよう、蓮にちゃんと躾てもらわないと」
「…っ…」
「茉莉花さん、なにをなさってるんです?」
思わず、身体が動きそうになった瞬間、それを止めるように肩を掴まれて。
驚いて横を見れば、いつの間に来たのか、和哉が見たこともない、爽やかな笑顔を浮かべて立っている。
「…馴れ馴れしい。副支配人だかしらないけど、βのくせに私の名前を呼ばないでちょうだい」
「これは、失礼致しました、羽生さま。でも、今のあなたは、とてもとても羽生グループの社長令嬢かつ取締役専務には見えませんでしたので、羽生さまとお呼びするのは抵抗がありまして」
茉莉花、と呼ばれた女性が、眉を潜めて和哉を睨んだけど、和哉はその笑顔のまま、慇懃無礼な態度でそう返して。
女性の方が、ぐっと言葉に詰まった。
「それに、間もなく会食の時刻では?うちの総支配人はもう会場へ出向きましたが、こんなところで油を売ってる暇があるんですか?」
和哉が、あからさまに勝ち誇ったような瞳で女性を見下ろすと。
彼女はチッと舌打ちして、もう一度俺を睨み。
なにも言わずに高らかにヒールの踵を鳴らしながら立ち去った。
「…てめぇの方が、100万倍下品じゃん」
呆然とその後ろ姿を見ていると、横で和哉がボソリと呟く。
びっくりして和哉を振り向けば、そんな暴言を吐いたとは思えない爽やかな笑顔で俺の背中をポンと叩いた。
「とりあえず、控え室に戻りましょうか」
ともだちにシェアしよう!

