341 / 566

白鷺(しらさぎ)24 side楓

その夜は。 弾き始めた直後から、突き刺さるような視線をずっと感じてた。 怒りを通り越して憎しみにも似た強いそれに、指先が震えそうになったけど。 他のお客様が向けてくれる優しい眼差しに必死に縋りながら、なんとか決められた時間だけは弾き切った。 「…疲れた…」 未だかつてない疲労感に、ぐったりと肩を落としながら、ピアノの蓋を閉めると。 フロア中に響き渡るヒールの音が、こっちに近付いてくるのが聞こえた。 俺は、心を落ち着かせるために、何度か深呼吸をして。 奥歯にぐっと力を入れて、その音の方を向く。 「…こんばんは。ヒメさん」 一瞬で全身に鳥肌が立つほど威圧的な冷たい声を放ったのは、思ってた通りの人だった。 「…羽生さま…」 もう蓮くんのフェロモンにしか反応しないはずの俺でも、その身体から放たれているであろう怒りに満ちたフェロモンの気配に、身体が勝手に震えそうになる。 でも ここで負けるわけにはいかない 「いらっしゃいませ。私になにかご用でしょうか?」 腹に力を入れて、無理やりに作った笑みを浮かべてみせると。 彼女は、不快を表すように眉をぎゅっと真ん中に寄せた。 「ご用、ですって…?」 それまで辛うじて取り繕っていた美しい微笑みは、剥がれ落ち。 まるで修羅のような表情で、怒りを露にする。 「なにをぬけぬけと…図々しいわね」 (まば)らにいたお客様たちが、異様な雰囲気を察知したのか、ざわめきだして。 フロントの方で、スタッフが慌てる気配を感じたけど。 俺はその人から目を逸らさずに、その不躾な強い眼差しを受け止めた。 「…私が、なにを言いにきたのか、わかってるでしょう?」 「わかりませ…」 「番を、解消しなさい」 言葉は、皆まで言わさないとでも言いたげに、ピシリと遮られる。 「あなたみたいな、どこの馬ともしれないΩが、あの人の番だなんて…それだけで、あの人が汚れてしまうわ。Ωなんていう、色欲のことしか考えてない最下層の低俗な生き物にはわからないでしょうけど、全てにおいて優れた存在のαのなかでも、あの人は最も高貴な存在なのよ。血筋はもちろん、どんな人をも圧倒するようなオーラとフェロモン…あの人は、αのなかでも特別なの。そんな特別な人に相応しいのは、決してあなたみたいなΩなんかじゃない。それは、あなたにだってわかるでしょう?」 俺より少し高いところにある瞳が、侮蔑の色をはっきりと乗せて見下ろす。 「…わかって、ます…」 その押さえ付けられるような威圧的な眼差しに、思わずそう呟いた。 そんなこと 誰に言われなくても俺自身が一番わかってる 俺みたいに穢れた存在が 蓮くんに相応しいはずないってこと でも 俺がいいって言ってくれた 他の誰でもない 俺だけが良いって言ってくれた 俺のこと 命より大事な人だって言ってくれた 何度も何度も あの誰よりも大きな胸に俺を抱き締め 俺だけを愛してるって言ってくれた その言葉が 俺がこの世界に生きている意味を与えてくれた だから 俺はいつ(どぶ)に捨ててもいいこの命を 蓮くんにあげようって決めたんだ 俺が生きているのは 蓮くんを愛するため それだけ もしも蓮くんから離れるときが来るとしたら 蓮くんが俺のことをもういらないって そう言ったとき その時だけだから 「…そう。ちゃんとわかってて偉いわね。だったら…」 「でも、離れません」 「…は?」 「俺は、絶対に蓮くんから離れません」 負けないように、お腹に力を籠めて睨み返す。 その時、ふわりと蓮くんのフェロモンの香りが漂って。 その優しい香りが俺を包み込むと、彼女の強いオーラに当てられて強張っていた心が、するりと解けていくのを感じた。 「それに…例え俺が離れたとしても。あなたみたいな人を、蓮くんは絶対に選ばない」

ともだちにシェアしよう!