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白鷺(しらさぎ)26 side蓮
「…なんですって…?」
女の怒りに、辺り一面の空気が冷えた気がした。
でも、楓はぎゅっと拳を握り直して、女から目を離さない。
「彼は、男だとか女だとか、αだとかΩだとか、そんな上辺だけのものだけで人を区別したりしない。あなたもこのホテルに何度も足を運んだなら、ここがどういうところか、どんな思いで彼がこのホテルを経営しているか、わからないはずないでしょう?ここのスタッフは、性別なんて関係ない。Ωであっても、どんな過去があっても、やる気と能力があればαやβと同じように働ける。ずっと虐げられてきた俺たちΩが、いつかこうなって欲しいと願う未来の形を、彼はここで実現してくれてるんだ。それは、彼自身が性別なんて関係なく、人そのものを愛しているから。αだってΩだって同じように、たった一人の人間なんだって、そうわかってるから。だから、彼は絶対にあなたを選ばない。人を記号だけで判別するあなたは、彼のことを永遠に理解できないでしょう」
いつの間にかシンと静まり返ったフロアに、楓の静かな、でも力強い声が響いて。
「…ヒメ…」
胸の中に、温かいものがいっぱいに広がっていく。
このホテルのことを
俺の想いを
楓の前できちんと言葉にしたことはなかったのに
おまえはちゃんとわかってくれてたんだな…
「…やるね、お姫様」
社長が、感心したように呟いて。
「弱そうに見えて、意外と強いんですよね、あの人」
和哉が、呆れたような声で笑った。
「成松くんは、番のお姫様と知り合いか?」
「…ええ。ずいぶん前から」
「へぇ…じゃあ、二人が番になるのは納得というわけだ?」
「納得もなにも、昔も今も蓮さんはヒメのことしか頭にないですからね。番にならなきゃ、世界を滅ぼしてたかもしれないですもん」
「おい、和哉!」
場違いなほのぼのとした会話に、気を取られていると。
「…っ、この、薄汚いΩがっ!」
口汚い罵倒の声が、耳に飛び込んできて。
急いで視線を戻せば、あの女が楓の首を両手で掴んでいる。
「ううっ…!」
「Ωのくせにっ、生意気なのよっ!」
「かえっ…ヒメっ!」
弾かれるように駆け出した俺の目の前で、楓の顔が苦痛に歪んだ。
「Ωが、αに意見するなんてっ…」
「やめろっ!」
細く白い首に食い込んでいる真っ赤なマニキュアの塗られた手を、叩き落とし。
楓を腕の中に抱き込む。
「蓮さんっ…!?」
「ヒメっ、大丈夫かっ!?」
「げほっ…げほっ…れ…くっ…」
激しく咳き込んだ楓のうなじには、爪が食い込んだ痕がくっきりと残っていて。
目の前が真っ赤に染まるほどの怒りが、沸き上がり。
その怒りに突き動かされるまま、女を睨み付けた。
「ひっ…」
女は、小さな叫び声を上げ、頬をひきつらせて後退る。
「おまえ…俺の大切な番に、なにをしている…」
憎しみにも似た怒りが、濁流となって俺を飲み込み。
それに呼応するように、空気がビリビリと振動した。
「れ、蓮さん、私、はっ…」
怯えた目で、ずりずりと後退る女に、手を伸ばす。
俺の命より大切な番を傷付けたこと
許さない
「ひぃぃっ…!」
「蓮、くっ…ダメっ…!」
指先が女に届く瞬間、楓が腕を掴んで。
真っ赤に染まっていた視界が、すっと元に戻った。
「だ、めっ…げほっ…蓮、くんっ…げほげほっ…」
「ヒメっ!」
苦しげに咳き込みながらも、楓は掴んだ腕を引き寄せ、俺を止めようとする。
「わかった。わかったから」
楓と、自分自身を落ち着かせるように、激しく上下する背中を擦りながら、忌まわしい引っ掻き傷のついたうなじにそっとキスをすると、楓の呼吸がほんの少し落ち着いて。
沸き上がっていた頭に、冷静さが戻ってきた。
「…今日のところは、お引き取りを。そして、二度と俺の番の前に姿を現さないでください」
罵詈雑言を並べ立ててやりたいのを、ぐっと堪え。
青ざめた顔で立ち尽くしている女を睨む。
本当ならその顔が見られなくなるまで殴ってやりたいところだが
ここで総支配人である俺がそんなことをしたら
真面目に働いてるスタッフたちに迷惑をかけてしまう
そう冷静に考えられた自分に、ほっとしつつ。
女から視線は外さずに、楓のうなじをべろりと舐めた。
「っ、蓮くんっ…」
びくっと震えて離れようとする身体を引き寄せて。
「今度、こいつの前に現れたら…次はなにをするか、俺にもわからないぞ」
威嚇するように、もう一度睨み付ける。
「ひ、ひぃっ…」
女は蛙が潰れたような情けない声を出して、逃げるようにその場を後にした。
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