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白鷺(しらさぎ)31 side志摩

「えっ?」 驚いて顔を上げれば、すぐそばに龍さんの心配そうな顔。 「最近、一人でなにか悩んでるだろ?ずっと、顔色が悪かった」 …気付いてたんだ… 「俺には、話してくれないのか?」 少し寂しそうな声で、そう聞かれて。 思わず、口を開きかけた。 でも。 「…なんでも、ないです。なんか、意味もなく落ち込んじゃう時があって…こういうの、マタニティブルーって言うんですかね?」 僕は、わざと明るい声で、そう言った。 「マタニティ…そうか。それは、俺にはわからないな…」 龍さんは、困ったように眉を下げ。 また、僕の頭を撫でてくれる。 「まだ俺のこと、心から信用できないかもしれないけど…俺に出来ることがあったら、遠慮なく言ってくれよ?どうにもならなければ小夜さんに頼るしかないけど、出来れば二人で解決したい。志摩は俺の、大切なパートナーなんだから」 「…はい。ありがとうございます」 優しい声に、笑顔を返しながら。 胸がちょっと苦しくなった。 本当は、何度も楓さんのことを聞いてみようと思った。 でも、龍さんが初めてお店に来た日のことを思い出すと、どうしても戸惑ってしまう。 あの日、龍さんは。 俺たちのことを憐れみに満ちた瞳で見ていた。 夜の暗闇に紛れ、自分自身を切り売りしてしか生きていけない僕たちを、可哀想だと思う心を隠すことなく、見つめていた。 別に、それ自体は不思議なことじゃないし、その事に傷付いたことはない。 僕たち…特に男性Ωは常にそういう視線に晒されて生きていくのが当たり前だし、珍しいものを見るような目で見られることはもちろん、蔑みの目を向けられることだってよくあることだ。 むしろ、龍さんはΩに対して優しさと慈しみを持って接してくれていた数少ないαだと思う。 言動は素っ気ないし、不機嫌そうなことも多かったけど。 それは、僕たちに対してではなく、自分自身へ向けられた怒りや失望だったんじゃないかと、こうして近くにいるようになった今になってわかった。 だって、龍さんはずっと、僕たちを蔑むようなことは一切言わなかったし。 あの店で僕を見つめる眼差しは、いつだってすごく優しかったから。 そんな龍さんだから、僕は好きになったんだ。 だけど。 もしも、柊さんが楓さんだったとして。 楓さんは龍さんの従兄弟で、義理のお兄さんで、この九条家の一員で。 九条家はα至上主義だって噂だったけど、お義父さんも小夜さんも、Ωに対して偏見なんかこれっぽっちもなくて。 だからきっと、楓さんがΩだったとしても、大切に育てられていたはず。 じゃなきゃ、あの写真であんなに楽しそうな笑顔を浮かべてるはずない。 そんな楓さんが、蓮さんと引き離されてから、どんな経緯を辿ってあの店にいたのかはわからないけど。 僕が楓さんのことを聞こうと思えば、柊さんと僕の関係を話さなきゃいけなくなる。 でも、龍さんは楓さんがあそこで働いていたことは知らない。 知ってたら、あんな風にお店を訪れることはなかったはずだから。 もしも…… 楓さんがあの店で 僕と同じように身体を売ってたって知ったら 龍さんはどう思うんだろう…? 僕たちを見た、あの時と同じ目で 柊さんを見るんだろうか…? Ωとはいえ 九条の人間があんな場所にいたなんてって軽蔑するだろうか…? そんなの、嫌だ 柊さんは僕の憧れで 大好きな人で その人を大好きな龍さんがそんな目で見るのなんて絶対嫌だ だから、やっぱり龍さんに楓さんのことは聞いちゃいけないんだ そう決意を固くしてると、突然お腹に温かいものが触れて。 はっと我に返った。 「志摩、あんまりマタニティブルーが酷いようだったら、医者に診てもらおう。俺、また再来週から大阪に出張だから、来週なら一緒に病院行けるから」 僕のお腹を優しく擦りながら、龍さんが本当に心配そうに僕を見つめている。 「もしも…お腹の子どもになにかあったら…俺は…」 そうして、すごくすごく苦しそうに、呻くように呟いて。 僕を、ぎゅっと抱き締めた。

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