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鶺鴒(セキレイ)19 side蓮

おそらく、九条の関係者がここへ来たとしても、楓のことはわからないはずだ。 そもそも、楓はβとして育てられていたし、お父さんが公の場はおろか、親戚たちにも楓を会わせようとはしなかったから、楓の存在は知っていても顔を知っている人は殆どいないに等しい。 顔を知っているのは学校関係者だけだが、和哉に確認したところ、楓がΩであるのを知っているのは春海と自分だけだと言っていた。 だから、万が一楓の顔を覚えていても誤魔化すことは出来るだろう。 今になって。 あの頃のお父さんは、α至上主義で凝り固まった親戚たちから楓を必死に守ろうとしていたことが、身に染みてわかる。 いや、もしかして今でもそうなのかもしれなかった。 楓がうちのホテルで働くことが決まって。 和哉にも内緒で、俺は楓の戸籍を調べた。 一ホテルのウェルカムサービスとはいえ、人目に触れる仕事だ。 いくら気を付けていても、不測の事態はあり得る。 万が一にも、ヒメの正体を誰かが突き止めそうになったとき、あの家との関わりが、俺との関係が公にならないように、先に手を打っておこうと思ったからだ。 でも。 調べた九条家の戸籍からは、とうに楓は抜かれていた。 楓が二十歳になったタイミングで養子縁組を解消してあったんだ。 最初は、お父さんはもう楓を亡き者としたのだと、怒りが沸き上がったが、冷静になって考えてみれば、もし本当にそう思っていたのなら、死亡届を出すだけで籍を抜く必要はなかったはず。 だとしたら、なぜそんなことをしたのか。 これはあくまでも、俺の憶測でしかないが。 お父さんは、九条という家が今の楓の足枷になることを案じて、籍を抜いたんじゃないだろうか? そして、いつか俺と楓が番う時のために、俺たちの関係を元に戻してくれたんじゃないだろうか? 実際の血の繋がりはどうでも、戸籍上は俺と楓は従兄弟に戻ったのだから。 考えすぎかもしれない。 だけど、あのお父さんが深い理由もなくこんなことをするはずがない。 もしかして… お父さんは楓のことを… 「あの…」 考え込んでいた俺の耳に、楓の戸惑ったような声が聞こえてきた。 「だったら、俺の、その…昔の、クラブに勤めてるときのお客様、とか…まずくないかな?きっと、こういうところに泊まりにくる人もいるだろうし…」 語尾が小さくなって、膝の上に置かれた手が、きゅっと拳を握る。 「ごめんなさい…俺、こんな俺でもやれることがあったことが嬉しくて、浮かれてたけど…よく考えたら、こんな経歴じゃ、このホテルに迷惑かける…」 「その件については、問題ありません」 俺が口を挟むより早く、和哉が楓の言葉を遮った。 「念のため、あのクラブを調べさせていただきましたが、その事でうちに害をなしそうな客はいませんでした。あそこのオーナーは、流石ですね。Ωのスタッフを守るために、身分調査を徹底している。少しでも素行に怪しいところがある人間は入れないようにしているようですね。それに、もしその事が公になっても、当ホテルとしては問題ありません。うちのΩのスタッフのなかには、あなたよりもっと酷い場所にいた者もいる。…まだ、Ωが生きやすい世の中ではないですからね」 溜め息混じりの言葉に、楓の身体が硬直したのがわかった。 和哉は、あの店を始める前の楓のことを知らないから… 硬く握られた手を、そっと包み込むと。 楓はまだ強張った顔で、それでも微笑みを浮かべる。 大丈夫だよ、と告げるように。 「ここに来る前になにをしていたとしても、今うちの社員であるならば、全力で守ります。それが、蓮さんと私の仕事ですから」 「…うん。ありがとう、和哉。そこまで言ってくれるなら、俺もヒメとして精一杯頑張ります」 そうして、その微笑みを和哉にも向けると、和哉もどこか嬉しそうに頷いて。 「じゃあ、契約成立ということで、宜しいですね?」 「はい。よろしくお願いします」 楓は、俺の手を握ったまま、和哉に向かって頭を下げた。

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