374 / 566

大水薙鳥(オオミズナギドリ)25 side楓

喫茶店を出て、蓮くんが俺の好きなところを回ろうって誘ってくれたけど、どうにもそんな気分になれず。 観光を断って戻ったホテルの部屋の、美しい枯山水の庭を見つめながら。 俺は遠い昔の朧気な記憶を思い返していた。 小さなカビ臭い部屋 薄いカーテンから差し込む夕焼けに彩られたピアノ お父さんの優しくて でも今にも消えてしまいそうな儚い微笑み 透き通るように美しいピアノの音 ずっと心の中にしまいこんであったセピア色の記憶が、鮮やかな色を取り戻して、俺の頭の中に溢れてくる。 それはとても切なくて でもとても暖かい記憶 「…ごめんな、楓」 その記憶の洪水に身を浸していると、蓮くんの大きな腕が俺を背中から抱き締めた。 「なんで謝ってるの?」 「いや、何て言うか、その…」 首だけ振り返って蓮くんを仰いだら、ちょっぴり情けない顔で眉を下げ。 珍しく、言葉に詰まる。 だから。 「…ありがと、蓮くん。お父さんのところに、連れてってくれて」 俺は、その腕の中でくるりと向きを変えると、逞しい身体にぎゅっと抱きついた。 「え?」 「俺もね…お父さんの気持ち、わかる気がするんだ」 俺とお父さんは 同じだから 「蓮くんの赤ちゃんが、お腹に宿ったとき…絶対に産みたいって思った。俺と蓮くんが、本当の兄弟だってわかっても、この子だけはどうしても産みたいって。そのためなら、あの家を捨ててもいいって思った。結局、俺はあのこを失ってしまったけど…たぶん、お父さんも同じ気持ちで、九条の家を捨てたんだと思う」 「楓…」 俺の言葉に、蓮くんが苦しそうに顔を歪める。 そのへの字に曲がった唇に、俺は微笑みながらそっとキスをした。 大丈夫だよ、と伝えるために。 「ひとりぼっちで生きてるとき…いろんなこと、考えたよ。俺の存在自体が本当は許されないものだから、だからあのこは俺の元から去っていったんじゃないか、とか」 「それは違うっ!」 「一番辛いときは、俺は生きてちゃいけない存在だから、死ななきゃいけないって思い詰めたこともある」 「楓っ!」 「でも…出来なかった。どうしても、蓮くんにもう一度会いたかったから」 俺の話を止めさせようと強く腕を掴んだ蓮くんが、息を飲む。 「俺ね…こんな汚れた身体じゃ、もう蓮くんには会えないって思ってた。でも、どうしても会いたくて。どうしても、蓮くんへの想いを断ち切れなくて。だから、どうしてももう一度蓮くんに会えるまで生きていたいって…それだけを思って生きてた。そうして、一目会えたら…死のうって、決めてた。…お父さんも、そうだったと思う。最後に誰よりも愛する人の姿を焼き付けたかったんだと思う」 脳裏に焼き付いて離れない、やつれたお父さんが最期に見せた、ひどく穏やかな横顔を思い出して。 不意に、涙が零れた。 「でも…蓮くんが助けてくれた。俺のこと抱き締めてくれて、深い闇の中に落ちていこうとするのを救い上げてくれて…いっぱいいっぱい、愛の言葉をくれて…今ね、なんの迷いもなく生きてて良かったって、そう思えるんだ。たぶん、生まれて初めて」 「…うん…」 蓮くんが、溢れる涙を指で掬う。 「…お父さんにも…生きて、こんな幸せを感じて欲しかったな…」 Ωとして生まれたことは 決して不幸なことなんかじゃない Ωだからこそ感じられる幸せがある お父さんにもそれを知って欲しかった 「蓮くん、俺ね…Ωでよかったって…蓮くんのΩとして生まれて、本当によかったって、そう思うよ」 「楓…」 「だから、ありがとう」 止まらない涙のまま、笑顔でもう一度蓮くんにキスをすると。 蓮くんは、黙って俺を強く抱き締めた。

ともだちにシェアしよう!