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大水薙鳥(オオミズナギドリ)28 side志摩

「すみません、お茶を切らしてて…コーヒーでもいいですか?」 「ああ、君は座ってなさい。もうすぐ臨月の妊夫さんになにかあったら、僕が剛さんに叱られるから」 リビングに通すと、伊織先生は爽やかに笑いながら僕を椅子に座らせ、澱みない動きで棚からコーヒー豆とミルを取り出した。 「うわ、パナマ・ゲイシャじゃないか。さすが、いい豆仕入れてるなぁ。僕も今度譲ってもらおうかな」 楽しそうに呟きながら豆を挽き、ドリップする姿は、とてもお客様って感じじゃなくて。 「伊織先生…この家にはよくいらっしゃるんですか?」 思わず、思ったことを訊ねる。 「ん?あぁ…そうだね。龍くんと君が引っ越してくるまでは、まるで息子のように入り浸っていたからね」 「え?そうなんですか?」 「剛さん…君の義理のお父さんには、僕は昔から世話になってるから。…うん。いい香りだ。はい、どうぞ…って、そういや妊娠中ってコーヒー飲んでもいいんだっけ?」 優しく微笑んだ先生は、いい香りのする挽きたてのコーヒーの入ったカップを僕に差し出そうとして、引っ込めた。 「あ、大丈夫です…けど…」 「けど?」 「あの…ミルクと砂糖を入れていただけると…」 お客様に淹れてもらった挙げ句、こんなわがままを言ってもいいんだろうかと、声を小さくして頼むと。 伊織先生は笑って頷いてくれる。 「ああ、気が付かなくてごめん。砂糖は一本でいい?」 「あ、えと…2本…」 「ふふふっ…了解。君も、甘党なんだな。同じだ」 その台詞が引っ掛かって、思わず先生の顔を見上げると。 先生は僕の注文通りのコーヒーを差し出しながら、向かい側に腰掛け。 どきっとするほど優しい瞳で、僕を見つめた。 「柊も、ずいぶんな甘党だった。ヒート明け、僕が作ってあげた甘いカフェオレを飲んでる時の幸せそうな表情は、忘れないよ」 不意に飛び出した名前に、胸の奥が懐かしさでいっぱいになって。 なぜだか、目の奥がひどく熱くなる。 「…志摩?」 ずっと押さえつけていた感情が、堰を切ったように溢れ出して。 目の前の先生の顔が、滲んだ。 「…もしかして、今、幸せじゃないのかい?」 心配そうな声には、首を横に振る。 「違いますっ…幸せですっ…僕、今、信じられないくらい、幸せでっ…」 だからこそ 今、柊さんはどうしてるんだろうって… あのβの人と一緒にいて 苦しんでるんじゃないだろうかって… 柊さんがいるべきだった場所に 今、僕がのうのうといることが間違ってるんじゃないだろうかって 「…ごめんなさい…」 「…大丈夫」 大きな手が、僕を包み込んでくれた。 龍さんとは違う、レモンみたいな優しい香り。 「心配しなくていい。柊は、元気だよ。そして、幸せだ。誰よりも彼を愛してくれる、強くて頼もしい番が、柊の側にいるから」 優しい声音で告げられた言葉に。 「えっ…?」 僕はびっくりして、その大きな腕の中で顔を上げた。

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