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夜鷹(よたか)1 side志摩
「僕は、小夜さんを誘ってデートにでも行ってきますよ。彼女にとっては、思い出したくない辛い話かもしれませんしね。仕事の話は、その後にしましょう」
そう言って、伊織先生は部屋を出ていって。
お義父さんと二人っきりになると、押し潰されそうな重苦しい沈黙が辺りを覆い尽くした。
僕は涙で濡れた頬を手の甲で拭って。
お義父さんが話を始めるのを、ひどい緊張に汗ばむ手を握り締めながら待っていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
「…すまなかった」
お義父さんがようやく掠れた声でそう言ったのは、手が痺れるくらい経った頃。
「え…?」
「君には心穏やかに過ごして欲しいと、楓のものは殆ど別の場所へ移していたんだが…それが、かえって君を苦しめていたんだな。すまない」
その言葉に。
ピアノの部屋以外に、柊さんのものやアルバムがひとつもなかったのは、お義父さんがわざと隠していたんだと知った。
「…僕、知らなかったんです。ここが、柊…楓さんの生家だって。でも…ピアノの部屋で、偶然写真を見つけて…」
そう言うと、お義父さんがますます苦しそうに眉を寄せる。
「…本当は、あの部屋も処分しなければならなかったんだがね…どうしても、出来なかった。あそこには、私の想いの全てが詰まっているから」
「え…?」
言葉の重々しさに、思わず首をかしげると。
お義父さんは大きく息を吐き出し、自らコーヒーを淹れて。
僕の向かい側に腰掛けると、まるで心を落ち着かせるように深呼吸をして、手に持ったコーヒーカップを口元に寄せた。
「…なにから…話すべきか…いや、全ての始まりから、話さなければならないな。私の末の弟…楓の母親、諒のことを」
ぽつぽつと、話を始めたお義父さんは。
昔を懐かしむように、視線を宙に投げる。
「諒は、私が10歳の時に生まれたんだ。生まれた時から誰もを魅了する可愛いらしい子でね…父も母も親戚達も、こぞって可愛がって甘やかしていた。でも…14の時に突然発情期がやってきて、通っていた学校のαの同級生に襲われる事件が起こった。あの頃は、今のように性別検査が義務付けられていなかったから、諒がΩだなんて誰も思ってもいなかったんだ。αを多く輩出するこの家で、Ωが生まれるはずがないと…αの血統を維持するためにα同士の政略結婚を繰り返し、それまで一度もΩが生まれたことなどなかったのだから」
声が、少し震えた気がした。
「Ωが生まれてしまったこと…それはこの家にとって悪夢でしかなかった。Ωを生んでしまった母は、すぐさま離縁された。諒も、決して外へは出られないように、屋敷の奥深くに軟禁された。あの、ピアノの部屋だよ」
「え…」
「私たち兄弟も、接触することを固く禁じられた。だが、私は諒が不憫でね…家の者の目を盗み、会いに行った。突然全てを奪われた哀れな弟を慰めてやりたい、兄としての優しさのつもりだった。諒は私が訪ねていくと、とても喜んでくれてね…涙で濡れた頬に、嬉しそうな微笑みを浮かべ、甘えるようにすり寄ってくる姿が愛おしくて…だが、その頃はまだ、諒への気持ちは兄弟としてのそれだと思っていた。…あの、運命の夜が、来るまでは」
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