386 / 566
夜鷹(よたか)8 side蓮
「彼とは昔、一度だけ会ったことがあるが…まるで駄々っ子だと思ったよ。自らが犯した罪を正面から受け止めることも出来ず、現実から目を逸らしたまま、子どものように拗ねているだけのように僕には見えた。まぁ…気持ちはわからんでもないけどね。一緒に育ってきた兄二人が運命の番だなんて、彼からしたら裏切られたような気持ちだったんだろう。ましてや、彼も楓を愛していたんだとしたら尚更だ。君が捨てた九条の跡取りに据えた彼がそんな状態だったから、剛さんも楓を助け出した後、家に連れ戻すことは出来なかったんだろうな。剛さんは、一見冷たそうに見えて、非常に愛情深い人だからね。楓と龍くんのために、あえて楓を那智くんの元へ預け、自分は影から見守り続けることを選んだ。きっと苦渋の選択だったと思うよ」
「…全て、俺のせいだな…」
俺が、楓の妊娠に気付いていれば
俺が、龍の気持ちに気付いていれば
俺が、九条を出ていかなければ……
ずっと消えない後悔が、また膿のようにジクジクと疼く。
「…そうだな」
伊織が俺の言葉に強く頷いて。
まさか同意されると思ってなかった俺は、驚いて。
落としていた視線を上げた。
「ふ…これくらいの意地悪は、許してくれてもいいだろ?」
それまで淡々と話していた伊織は、俺の顔を見て面白そうに口角を上げる。
「君は、僕が全てを投げ捨ててでも欲しくて欲しくて堪らなかった人を、いとも容易く手に入れたんだから」
そうして、軽い口調で、でもひどく重い響きの言葉を唇に乗せた。
その瞳の奥には、未だ消えない情熱の炎が見える。
「最初に彼を見つけた時から、惹かれずにはいられなかった。彼に触れてみたいと、彼を抱き締めたらどんなに芳しい香りがするのかと、ずっと夢見ていた。なぜ、僕が楓の運命じゃないのかと、悔しくてね…だから、那智くんの店が軌道に乗り始めた当初、一度は監視役を離れたんだ。影から一方的に見つめるだけで、触れることも出来ない人を思い続けるのは、思ったよりもずっと苦しかったからね。だが、やっぱり忘れられなくて、どうしても触れてみたくて…今度は正々堂々と彼の前に立ち、真正面から思いをぶつけた。もしも楓が頷いてくれたら、僕の番にするつもりだった。剛さんも、楓がそれを望むならと承諾してくれた。だが…楓は決して君を忘れることはなかった。ヒートの嵐のなかで僕に抱かれながら、ずっと君の名前だけを呼んでいたんだ」
そうして、一瞬だけ切なそうに目を細めて。
でもすぐに、安堵の表情を浮かべた。
「…君たちが番になって、楓が本当に幸せそうに笑ってるのを見て…浮かんできたのは悔しさではなく、安堵だった。そんな気持ちになるなんて自分でもびっくりだが、ずっと待ってたのかもしれないな。僕の役目が終わる日を」
その柔らかな微笑みには、嘘はないように思えて。
曇りなどない真っ直ぐな眼差しに、思わず視線を逸らす。
「…でも、どうして今さらそんなことを?この話、本当は俺にも聞かせるつもりはなかったんだろう?」
なにをどう返していいかわからなくなった俺は、意図的に話題を変えた。
伊織はまたビールを口に運んで、大きく息を吐き出す。
「これから…楓はまた苦しむかもしれない。もしそうなった時、楓を救えるのは君しかいない。だから、君は全てを知っておくべきだと…そう思ってね」
「楓が、苦しむ…?」
「…志摩くん、という子を、知っているか?」
「志摩…?…ああ、確か龍の結婚相手だよな?楓の後輩だったって、那智さんから聞いたが」
「そう。その志摩くんが、全部を知ってしまったんだよ。柊が楓であることも…龍くんが、楓のお腹の中の子どもを無理やり堕ろしたことも」
「え…」
「…もしかして、楓に会いに来るかもしれない。だが、楓は志摩くんが今、龍くんの奥さんになっていることも知らないだろう?もし突然会いに来て、龍くんのことを話したら…ようやく心から笑えるようになった楓がまた苦しむのを、僕は見たくないんだ。僕が言うのは筋違いかもしれないが、楓のことをよろしく頼む。そして、志摩くんのことも。この通りだ」
そう言って。
伊織は俺に向かって深々と頭を下げた。
ともだちにシェアしよう!