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夜鷹(よたか)22 side蓮

その夜。 仕事を早めに切り上げて、ロビーへ降りると、エレベーターのドアが開いた瞬間に柔らかいピアノの音色に包まれた。 小さな人垣の向こうに見える漆黒のグランドピアノの前に座る楓は、まだ少し顔色が悪いものの、その音色はいつもと同じように優しく、そして美しく煌めいていて。 ほっと胸を撫で下ろしながら、ロビーを横切る。 「あれ…総支配人、今日はもう上がりですか?ヒメさん、待ってなくていいんですか?」 「ああ、少し野暮用があってね。演奏が終わるまでには戻るよ。ヒメのこと、頼む」 「はい、いってらっしゃいませ」 俺の姿を目敏く見つけたフロントのスタッフが声をかけてきたのを、軽く躱し。 ホテルを出て、そこから歩いて3分ほどの場所にあるカフェを目指した。 そこが、那智さんとの待ち合わせの場所。 若干重い足取りを自覚しつつ、店のドアを潜ると。 奥の方の席に、小柄だけどやけに存在感のある那智さんの姿をすぐに見つけた。 そして、その隣に座る、まだあどけない少年のような姿も。 「蓮」 俺に気付いた那智さんが、片手を上げて。 その声に、俯いていた顔を弾かれたように上げた彼は、想像していたよりもずっと幼く見えた。 確か、まだ20歳になったばかりだと言っていたな… それなのに、もうすぐ出産ってときにこんなことに巻き込まれて 可哀想だとは、思うけど… 「お待たせして、申し訳ありません」 吸い寄せられたように俺を見つめる彼の視線を受け止めながら、その向かい側に腰を下ろす。 その目の下には、はっきりとわかるほどの真っ黒い隈が現れていて。 少しだけ、心が痛んだ。 「いや…こっちこそ、悪いな。柊は、まだ演奏中か?」 「ええ。あと一時間半は」 那智さんの質問に答え。 背筋を伸ばして、彼へと正面から向き合う。 「はじめまして。九条蓮です」 手を差し出しながら、名乗ると。 彼ははっとしたような表情になり、それからすぐに動揺したように視線を彷徨わせた。 「あ、は、はじめ、ましてっ…広瀬…じゃなかった…あの…く、九条…志摩、です…」 おずおずと、俺の手を遠慮がちに握った彼の左手の薬指に、シルバーのシンプルな指輪を見つけて。 思わず逸らした視線の先。 椅子に座っていて見えづらかったぽっこりと張り出したお腹が見えて。 「…っ…」 瞬間的に、胸が詰まる。 わかってる 彼にはなんの罪もない 俺たちが巻き込んだ被害者だ わかってる、けど… 一度だけ子どものことを話した時の、楓の全てを諦めきったような哀しげな微笑みが脳裏を過って。 顔が歪んだのが、自分でもわかった。 それに気が付いたのか、志摩くんは泣きそうな顔でパッと手を引っ込める。 「…最初に、ひとつだけ言っておく」 そうして、胸の前で固く握られた両手を見つめながら出した声は、自分でも驚くほど低かった。 「俺は、なによりも楓が大切だし、楓を傷付けるものは、何者であっても決して許さない。俺たちの問題に君を巻き込んでしまったことは、本当に申し訳ないとは思うが、君が楓にとって害となるようなら、どんなに楓が君のことを好きでも容赦はしない。それを、覚えていてくれ」 志摩くんは、俺の言葉にこくんと小さく喉を鳴らすと。 泣きそうな顔で、俯いた。 「…はい…ごめんなさい…」

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