401 / 566
夜鷹(よたか)23 side蓮
「…っ…柊、さんっ…」
那智さんに支えられながらホテルに足を踏み入れ、ロビーでピアノを弾く楓の姿を見つけた瞬間。
志摩くんの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「…もうすぐ終わりなので、楓の控え室で待ちましょう」
いくつもいくつも涙を流しながらも、決して楓から目を離そうとしないその姿を、哀れだとは思ったが。
今は楓の心を乱すわけにはいかないと、彼のことをあまり見ないようにしてエレベーターを指差す。
「ああ。行こう、志摩」
それでも足を動かさない志摩くんを、那智さんが抱えるようにして歩き出したとき。
フロアに、聞き慣れたメロディーが響いた。
「…ショパンの…ノクターン…」
何度も聞いてきたはずのその音色は、今までで最も柔らかく優しく心を揺さぶるようで。
まるで、それは楓から志摩くんへのメッセージのようにも思えて。
再び足を止めた志摩くんの瞳から、また涙が溢れだす。
「柊さん…ごめんなさい…」
『最後にね、ショパンのノクターンを教えてあげたんだ。ピアノ、触ったこともなかったのにさ。一生懸命覚えようとする姿がいじらしくて可愛くて…ずっと側にいて、幸せになる姿を見てみたかったよ』
彼のことを話した楓の言葉を思い出した。
楓にとって志摩くんは
父親からもらった大切な曲を譲るくらい
大切な存在だったんだろう
それなのに…
「…行きましょう」
「ああ。ほら、志摩いくぞ」
何度も謝罪の言葉を繰り返しながら咽び泣く彼の姿に、微かな胸の痛みを感じなから促すと。
那智さんが頷いて、志摩くんをその場から連れ出してくれた。
エレベーターに乗り込み、ピアノの音が聞こえなくなると、ようやく志摩くんは泣き止んで。
ぐったりと力なく那智さんへと身体を預ける。
エレベーターが着いても、自力で歩くことが出来なくて。
那智さんが抱え上げて、部屋まで運んだ。
「…ベッド、使ってもいいか?」
「ええ、もちろん」
控え室のベッドに寝かされた志摩くんは、ぐったりとしていて、ひどく顔色が悪い。
額には玉のような汗が浮かび、呼吸は少し苦しそうで。
小さな呻きのような声を出して、大きく張り出したお腹を抱え込むように丸くなった。
「…大丈夫なんですか?」
彼にはあまり感情を動かさないようにしようと心に誓っていたのに、その辛そうな様子につい訊ねてしまった。
「大丈夫…じゃねぇな。あの家を出てから、ろくに飯も食べねぇし、夜もよく眠れないみたいだし…昨日からまた血圧が上がってるんだ。このまんまの状態が続けば、出産に耐えられるかどうか怪しいかもしれねぇって誉が言ってた」
「…そう…ですか…」
「だから、柊に会うことで少しでも落ち着いてくれたらいいと思ってさ…柊には、キツイことかもしんねぇけど…」
那智さんの硬い表情に、事態は俺が思っていたよりも深刻なんだとわかって。
さっき自分が放ったきつい言葉を思い出し、罪悪感がじわりと胸に広がる。
「さっきは…すみません。あんなこと言って…」
「…おまえが気にすることじゃねえよ。おまえの立場から言えば、当然の発言だ。志摩のことは、俺と誉がなんとかする。おまえは、柊のことだけ考えてろよ。あいつは、きっとおまえが側にいれば大丈夫だろ?」
優しい手付きで志摩くんの背中を擦りながら、那智さんが俺に向けた眼差しは。
俺を試すようにも、信頼を預けてくれているようにも、どちらにも見えて。
俺は神妙に頷くしかなかった。
ともだちにシェアしよう!