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天女(つばくらめ)17 side蓮

「ありがとうございます。お釣りは結構です」 違反速度で急かしたお詫びに一万円札を置いて、タクシーを飛び降りた。 診療所の古びた引戸を開くと、ちょうど休憩時間なのか、待合室には誰もいなくて。 「楓っ!楓、いるか!」 これ幸いと、大声で叫びながら靴を脱ぐ。 「楓っ!」 「蓮!?おまえ、なんで…?」 診療所の奥にある、居住用のリビングに向かって駆け出そうとした時、診察室のドアが開いて那智さんが驚いた顔で現れた。 「那智さんっ!楓はどこですかっ!?」 「柊なら、ここだけど…」 「楓っ!」 呆然と立ち尽くす那智さんを押し退けて、診察室に飛び込むと。 ベッドに横になり、下腹部にタオルを掛けた楓の姿が目に飛び込んできた。 「蓮くん…?どうしたの?」 「楓、おまえっ…」 「あー、ちょっと今、楓に触らないで。赤ちゃんの心拍を確認してるところだから」 駆け寄ろうとした俺を、誉さんの少し怒ったような声が制する。 「あか、ちゃん…」 さらりと告げられた台詞に、身体が固まって。 「…楓…本当に…?」 恐る恐る訊ねると、楓は照れ臭そうに目を逸らし、小さく頷いた。 それまで嬉しいような信じられないような、漠然としていた感情が、一気に爆発的な喜びへと変わる。 でも、楓に駆け寄ることを止められた今、それをどうしたらいいのかわからなくて。 思わず、側に立っていた那智さんにぐいっと詰め寄った。 「楓が妊娠してること、なんですぐ教えてくれなかったんですかっ!」 「えええっ!?俺ぇ!?俺はちゃんと報告しろって言ったぞ!?でも柊が、今は蓮くん大変だから、後で言うからって…」 「だからって、黙ってることないでしょうが!」 「いや、だから!俺に言われてもっ…」 「ちょっと五月蝿(うるさ)い、そこの二人。集中出来ない」 ピシャリと誉さんに怒られて。 俺たちは顔を見合わせたまま、口をつぐむ。 「んー…んん?これは…」 不自然に落ちた沈黙の中、下半身に掛けられたタオルの中に手を突っ込んでた誉さんの呟きが零れた。 「あの…赤ちゃんに、なにか…?」 「いや…大丈夫。ちゃんと、心臓が動いてるのが確認できるよ。ほら、蓮くんも見てみて?」 不安そうな楓の声に、誉さんはふんわりと柔らかな笑顔を見せると。 白黒のモニターを指し示す。 「ここが子宮ね。で、この小さいのが赤ちゃん。赤ちゃんの真ん中、ちょっとまだ見にくいけど、規則的に動いてるのが見えるでしょ?これが、赤ちゃんの心臓だよ」 それはとても小さくて でも確かに存在する命の証 「…本当だ…」 もしかして見ることはないのかもしれないと 半ば諦めていた命の輝き 「それから、分かりにくいんだけど、ここ。もうひとつ胎嚢が確認できる。見えるかな?」 誉さんの説明に、さらに目を凝らしてみても、俺にはよくわからなくて。 「えっと…それはつまり…?」 「楓のお腹にいるのは、二人。つまり、双子を授かったってこと」 「…双子…?」 「うん、双子」 「双子って…ふたり、ってこと、ですよね…?」 「そうだね」 「それ、本当…ですか…?」 「本当だよ。おめでとう、蓮くん、楓」 想像すらもしていなかった事実を告げられ。 お祝いの言葉を誉さんが口にした瞬間。 胸が熱いものでいっぱいに満たされて。 その結晶のような熱い雫が、頬を流れ落ちていく。 「…蓮くん…」 震える声に、振り向けば。 同じように頬を濡らし、でも幸せそうに微笑んだ楓が、俺に向かって手を伸ばしていて。 迷わずその手を取り、そっと頭を抱き寄せると。 楓の指が、ぎゅうっと強く俺の背中を掴みしめた。 「…ありがとう…楓、ありがとう…」 ありがとう… もう一度 俺たちの元へ来てくれて………

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