477 / 566
鳳凰(ほうおう)34 side楓
入院、といっても、やることは薬を飲んで安静にしているくらいしかなくて。
ただベッドに横になっていると、思い出したくもない過去のことばかり思い出してしまって。
ひどく気が塞ぎ、時には過呼吸を起こしかけたりしたけど、その度に紫音先生が来てくれて、手を握って話を聞いてくれた。
静かな細波ひとつない、凪いだ海のような瞳で。
先生は俺が話す間ずっと黙って耳を傾けてくれて。
話し終わった後、まるで自分が苦しかったような顔で「よく頑張ったね。辛かったね」って、そう言った。
その言葉ひとつで、救われたような気持ちになって。
心が少し軽くなるのと比例して、体調も少しずつ上向いてきて。
入院して1ヶ月を過ぎる頃には、動悸や息苦しさも殆ど感じなくなってきていた。
「今日は、すごく顔色いいな。なにか、いいことあった?」
いつも仕事帰りにお見舞いに来てくれる蓮くんは、俺の顔を見るなりそう言った。
「うん。もしかしたら、来週くらいに家に帰れるかもって」
「そうか!よかったな」
俺の報告に、本当に嬉しそうに微笑んでくれる。
「じゃあ、その日は俺が夕飯作るよ。何が食べたい?楓の好きなものにしよう」
「え?お粥以外、作れるの?」
「失礼な。作れるよ」
「だって、料理なんて発情期以外でしたことないじゃん」
「最近、ちょっと練習してるんだよ。双子が産まれてきたら、楓しばらくは家事とか出来ないだろ?だから、料理くらいは出来るようにならないとって思ってさ」
少しだけ恥ずかしそうに告げられた優しい気遣いに、胸がじんと熱くなった。
「…なんでもいいよ。蓮くんが作ってくれるなら、なんでも美味しいもん」
泣きそうになるのを堪えて、笑顔を作ると。
蓮くんも笑って俺の手を取る。
「じゃあ、唐揚げにしよう。楓、好きだろ?」
「うん。楽しみにしてる」
繋いだ手を軽く引いて、倒れてきたその大きな胸に顔を埋めた。
「…あのね、赤ちゃんの名前、やっと決めたよ」
「そっか」
1ヶ月、不安定な俺を急かすことなく待っててくれた蓮くんの手が、ゆっくりと俺の髪を梳く。
俺は深く息を吸って、その名前を大切に唇に乗せる。
「凪 」
この子たちがαかΩかわからないけど
風のない穏やかな海のように
穏やかで静かな人生になりますように
そんな願いを込めて
「凪、か。いいね、素敵な名前だ」
どうかなって顔色を伺うと。
蓮くんは優しい微笑みで頷いてくれた。
「蓮くんは?どんな名前にしたの?」
ほっとしつつ、訊ねると。
「櫂 、はどうかな?」
俺の手のひらに、櫂という漢字を指先で書く。
「櫂って、水をかいて船を進める道具…オールみたいなもののことなんだ。自分の手で人生を切り開いて進んでいける人間に育って欲しい。努力を惜しまない、強い人間になって欲しい。そんな願いを込めて。それに、海もかいって読むだろ?同じ響きもいいかなって」
そうして、見慣れない漢字に首を傾げる俺に、優しい眼差しで教えてくれた。
「櫂…」
蓮くんが付けてくれた名前を噛み締めるように呼びながら、お腹を撫でる。
「凪」
蓮くんが、俺の付けた名前を呼びながら、その手に自分のを重ねると。
ぽこ、ぽこ、と振動が二回、伝わってきた。
「気に入ってくれたみたいだな」
「うん、そうだね」
思わず顔を見合わせ、笑いあった時。
病室に、携帯の着信音が鳴り響いた。
「やべっ、切るの忘れてた」
ポケットに入れてあったスマホを慌てて取り出し、その画面を見た瞬間。
蓮くんの顔が、強張る。
「蓮くん?」
「…お父さんの病院からだ」
その言葉が耳に入ったと同時に、ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
「はい」
そのままドクンドクンと耳元で大きく鳴り響く音で、蓮くんの声がよく聞こえない。
「…わかりました。すぐに向かいます」
通話を終え、俺を見た蓮くんの表情は、見たこともないほど硬くて。
それだけで、悪い話だってことがわかった。
「…お父さん、危篤だって」
聞きたくなかった言葉が耳に飛び込んできて、またドクンっと大きく心臓が跳ねる。
瞬間、今まで感じたことのない強い痛みが胸を貫いて。
息が、詰まった。
「俺、今から向こうの病院に…楓っ!?」
酸素を取り込もうと口を開いても、空気が入ってこない。
「楓っ!どうした!?楓っ…」
酷い耳鳴りがして、蓮くんの声が遠くに聞こえる。
酷い悪寒に、全身から冷や汗が一気に噴き出し、グラグラと視界が大きく揺れて。
「楓っ!!」
再び強い痛みを胸に感じた瞬間。
視界が突然、ブラックアウトした。
ともだちにシェアしよう!