532 / 566

番外編 鴎(かもめ)7 side楓

「もちろん、簡単なことじゃないってわかってる。子どもたちを育てることが最優先なのは間違いないし、ブランクがありすぎるから、前みたいに弾けるかなんてわかんないし…でも、最近またピアノに触れるようになって…そうしたら、思い出すの。あのホテルで弾いてた時の、すごく幸せな気持ちを。お客さまが幸せそうな顔でホテルに入ってくる、あの幸せな空間を…。子どもたちといる時間もすごく幸せなんだけど、でもヒメとしてピアノを弾く時間もすごく幸せで…どっちも失くせない、掛け替えのない時間なんだって…そう思って…」 「うん、わかってる」 「ごめんね、俺、すごいわがまま言ってるよね」 「そんなの、全然我が儘なんかじゃない!」 俺の言葉を、蓮くんが大きな声で食い気味に遮ってきて。 「我が儘なんかじゃない。楓がやりたいことをやっていいんだ。それが、俺の望んでることだから」 それから握った手にぎゅっと力を込め。 もう一度、言い聞かせるように言葉にしてくれて。 蓮くんの優しさに、胸の奥がじんと熱くなった。 「…うん。ありがと」 「子どものことは、なんとかなる。ホテル内の保育園もあるし、俺が見れる時は見てるし。小夜さんを頼ってもいいし、ベビーシッターを頼んでもいいしな。楓がやりたいんなら、俺は全力でサポートするから」  「うん。俺、いっぱいがんばるから」 「あんまり頑張らなくてもいい」 「んもう…そこは、がんばれ、でいいの。がんばりたいんだから。だって、俺だって蓮くんの夢、一緒に追いかけたい。あのホテルを、いつまでもみんなの笑顔で溢れる場所にしたい。そのために、俺のピアノがあのホテルの…蓮くんの役に立つんなら、いくらでもがんばれちゃうんだから」 「そうか」 そう力説すると、蓮くんは本当に嬉しそうに微笑んで。 繋いだ手をそっと引いて、包み込むように抱き締める。 「ありがとう、楓」 「どうして蓮くんがお礼言うの?ありがとう、は俺の方でしょ」 「いや…俺と同じ夢を見てくれて、ありがとう」 そう言って、優しいキスをくれて。 蓮くんの温かい体温にすごく安心して、目を閉じてその優しいフェロモンを感じてると。 再び、和哉の咳払いが聞こえてきた。 「あの…俺たちがいること、忘れないでもらえます?」 呆れを含んだ声音に、はたと二人がいたことを思い出して。 慌てて、蓮くんから離れる。 「ご、ごめんっ」 「おまえね…いいとこ、邪魔すんなよ」 「俺たちが帰ったら、思う存分できるでしょ。それまで我慢してください」 不満そうな蓮くんの眼差しを、澄ました顔で和哉はさらりと受け流し。 「それじゃ、復帰するってことでいいんですよね?」 念押しするように、俺に訊ねた。 「うん。あ、でもすぐにってわけじゃ…」 「わかってます。そのタイミングは、ヒメに任せますよ」 「ありがと。あと、結婚式の件も、今の段階じゃ受けられるかどうかの返事は出来ない。龍と志摩の結婚式なら、もちろん俺に出来ることはやりたいと思うけど…だからこそ、納得いく演奏が出来ないんなら、受けちゃいけないと思うし」 「…なるほど。わかりました。その辺りも、あなたの判断にお任せします」 「ごめんね、わがまま言って」 「いえ。俺としては今後、継続的にうちの結婚式にヒメの生演奏というオプションを付けようという下心ありありの提案をしているだけなので」 「え?そうなの?今回だけじゃないの?」 「当たり前じゃないですか」 考えてもいなかった提案にびっくりしてると。 「も~、かずは素直じゃないなぁ。本当は、楓に志摩くんの結婚式にちゃんと参加させてあげたいって思ってるくせに~」 春くんが和哉の脇腹を肘で突つきながら、茶々を入れて。 「うっさい!部外者は黙ってろ!バカ春っ!」 途端、真っ赤になった和哉が、春くんのほっぺたを両手でぎゅーっとつねる。 「痛い、痛いっ!ギブ、ギブ!」 仲良さげにじゃれあう二人に笑いつつ、蓮くんを見ると。 同じように笑ってた蓮くんは、その笑顔のまま一つ頷いた。 俺の存在は九条家じゃタブーに近くて だから親戚も集まる式には顔を出しちゃいけないって思ってた でもホテルのスタッフのヒメとしてなら 堂々と二人を祝福してあげられる みんながそこまで考えてくれてたことが本当に嬉しいから 「俺、めちゃめちゃ頑張るから。だから…またいろいろ迷惑かけるかもしれないけど、よろしくお願いします」 たくさんの感謝の気持ちで頭を下げると。 「だから、めちゃめちゃは頑張らなくていいから」 蓮くんが苦笑気味に、そう言った。

ともだちにシェアしよう!