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番外編 鴎(かもめ)12 side志摩

蓮さんと別れたあと、そのままチェックインして。 部屋でしばらくのんびりし、ヒメさんの演奏が始まる10分前にロビー階に降りていくと、もうピアノの回りには人集りが出来ていた。 「あれ、みんな楓の演奏を待ってるのか…?」 「そうだよ。ヒメさんって、実はすごく有名人なの。ヒメチャンネルって、柊さんがピアノを弾いてる動画チャンネルがあるんだよ。今はもう更新はしてないんだけど、今でも登録者数80万人くらいいるみたい」 「えっ!そんなのもあったのか!?」 「うん、そう。藤沢さんが作ったんだって。見る?」 蓮さんがリザーブしてくれてた席に座りながら、スマホを取り出してヒメチャンネルを開く。 そうして、龍さんにも見えるようにテーブルの上にそれを置くと、龍さんは食い入るように身を乗り出して画面を見つめた。 流れてきたのは、僕が柊さんに教えてもらった、柊さんが一番大切にしてたショパンのノクターン。 「僕も最近まで知らなかったんだけど、藤沢さんに教えてもらってね。ここんとこ、せっちゃんを寝かしつける時に子守唄代わりにこれを流してるの。そうするとすーっと寝てくれて、夜泣きもしなくて…柊さんのピアノの癒しパワー、すごいよね」 「…うん。楓のピアノは、昔からずっとそうだった。聞く人の心を優しく包んでくれて…どんなに嫌なことやムカつくことがあっても、帰ってきて楓のピアノの音を聞いてると心が落ち着いて…なのに…俺は…」 語尾が、震えて。 龍さんの顔が、苦しそうに歪む。 「龍さん…」 思わず膝の上に置かれた手を取ると、小刻みに震えてて。 その拳を両手で包み込んだ時、突然大きな拍手の音が鳴り響いた。 「ヒメちゃん、おかえり!」 そんな声が聞こえて。 龍さんの手を握りしめたまま顔をあげると、真っ白なスーツを着た柊さんが、ゆったりとした足取りでピアノへと向かって歩いてくる。 その顔に、天使のような微笑みを湛えて。 「待ってたよ!」 「おかえり!」 次々に掛けられる言葉に、一つ一つ会釈をして。 まるで本物の天使が舞い降りたみたいに軽やかにピアノの前に立つと、深々とギャラリーの人たちにお辞儀をした。 椅子に座り、鍵盤に手を置いたところで、不意にその視線が僕たちの方へと向く。 「っ…」 その真っ直ぐな眼差しに、龍さんがぴくっと小さく震えたけど。 柊さんの瞳はとても穏やかで、優しくて。 「…大丈夫。柊さん、きっと龍さんが来てくれたこと、喜んでる」 僕は確信を持って、龍さんの手を強く握った。 柊さんは、ほんの数秒僕たちの方を見た後、大きく息を吸って。 直後、柔らかなピアノの音色が流れ出す。 それは僕が聞いたことがない曲で。 なんの曲なんだろうって思ってたら、龍さんが僕の手をきゅっと握り返してきた。 「…アンチェインド…メロディー…」 「え…?」 「…俺が、好きだった…昔、俺のために弾いてくれた…」 ぽつりぽつりと言葉にする龍さんの瞳から、大粒の涙が溢れだす。 「覚えてて…くれた、のか…」 真珠のような涙の粒が、後から後から頬を伝って。 それを拭うこともせずに柊さんを見つめ続ける龍さんの手を、僕はもう一度強く握り締めた。

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