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番外編 鴎(かもめ)13 side志摩
2時間の演奏が終わり、ギャラリーの人たちと楽しそうに話をする柊さんを。
龍さんは、なにか憑き物が落ちたような、すっきりとした顔で見つめていた。
「…素敵だったね、ヒメさんの演奏」
「ああ」
僕がそう声を掛けると、ふわりと柔らかく微笑む。
それは、僕が初めて見る微笑みだった。
そんな風に笑うと
やっぱり蓮さんにどことなく似てるなぁ…
「…オレンジジュース、すっかりぬるくなっちゃったな。新しいの、もらおうか?」
「うん、ありがとう」
柊さんの演奏に夢中になって、一口も飲んでなかったジュースに気付いてくれて、新しいのを頼んでくれる。
そんなさりげない気遣いが、すごく嬉しい。
「そういえば、いつか志摩と一緒に酒を飲むのを楽しみにしてたのに…結局、一滴も飲めないままだな」
「そうなの?」
「ああ。あの店で約束しただろ。成人したら、って」
「あー…そうだったかも…」
よく覚えてないけど
そんな会話したような気もする…
結局、世絆をすぐ妊娠して
産んでからも母乳あげてたから
なんだかんだと今でもお酒は飲んだことないんだよねぇ…
「あの時、志摩は飲めなさそうって言ったら、そんなことないって言ったけど…やっぱり思ったとおりだった」
「わかんないよ?飲んでみたら意外に!かもしれないよ?」
「いや、絶対弱い。間違いない」
クスクスと、声を立てて笑う龍さんはとっても楽しそうで。
なんか…
あの店で出会った頃みたい
あの時の龍さんは不機嫌なときもあったけど
でもお酒を飲みながら話してるうちに今みたいに笑ってくれて
龍さんが笑ってくれるだけで僕
すっごく幸せだったなぁ…
あの頃はまさか龍さんの奥さんになるなんて
夢にも思わなかったけど
昔も今も
僕は龍さんにすっごく幸せをもらってるんだよね…
「ずいぶん楽しそうだね、二人とも」
胸一杯に広がる幸せにジーンとしてると、すぐそばで柊さんの艶やかなテノールの声が聞こえた。
「柊さん、お疲れ様です!」
あの頃のことを思い出してた条件反射か、つい昔みたいに立ち上がってしまって。
龍さんが目を丸くする。
「あ…」
「ふふっ…懐かしいね、その感じ」
柊さんは僕と龍さんを交互に見て、軽やかに笑った。
「あのっ…今日の演奏素晴らしかったです!」
恥ずかしくなって、早口でそう言うと。
柊さんはちょっと困ったように眉を下げる。
「そう?久しぶりだから、緊張しちゃって…」
「ええっ!?柊さんでも緊張することあるんですか?」
「そりゃ、あるよ。俺をなんだと思ってんの」
そうして、またクスクスと笑いながら、龍さんへと視線を向けた。
「龍も…最後まで聞いてくれてありがとう」
真っ直ぐに向けられた眼差しを、龍さんはしっかりと受け止めて。
「本当に素晴らしかったよ。それに、あの曲…懐かしかった。嬉しかったよ。こちらこそ、ありがとう」
柔らかく微笑みながら、そう言った。
二人の会話は、そこで途切れてしまったけど。
互いへと向けられた眼差しは、とても穏やかなもので。
わだかまりが完全に消えたわけじゃないだろうけど…
少しずつ少しずつ
昔の仲の良い兄弟だった頃に戻れてるのかな…
だったら、いいな…
「…せっかくだから夕飯でも、と思ってたんだけど、もう凪と櫂をお迎えにいかなきゃいけなくて。蓮くんも急な打ち合わせが入っちゃったみたいだから、今日は二人でゆっくりしていって」
そんな少しの期待も込めつつ、見つめ合う二人を見ていると、不意に柊さんが僕の方を向く。
「え、あ、そうなんですか?残念…」
「ごめんね。今度ゆっくり、志摩の家に遊びに行くから。あの子達も世絆と遊びたいだろうし。…お父さんにも、お線香あげたいしね」
本当は柊さんの実家なのに、僕の家、なんて他人行儀な言葉にちょっと寂しくなるけど。
そう言う柊さんの気持ちも、少しだけわかるような気がするから。
「はい。いつでも待ってます」
僕は笑顔で、答えた。
「うん。それじゃあ、また。今日はありがとう」
もう一度ちらりと龍さんへと視線を向けて、背中を向けた柊さんは、数歩歩いたところでもう一度振り向く。
「あ、そうだ。例の件、まだ承諾は出来ないけど、前向きには考えてるから…もうちょっと待っててね」
「へ?例の件…?」
咄嗟に言われたことがわかんなくて、首を傾げてると。
「結婚式のことだろ」
龍さんが、苦笑いしながら答えをくれて。
「あっ!はい!待ってます!待ってますからっ!」
僕の言葉に、柊さんは声を立てて笑って、手を振った。
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