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 黒雲が地平線から立ち上がり、無数の首を持つ竜のように伸びて晴れた空一面を覆う。急に風が冷たくなり、大粒のしずくがひとつ、またひとつ、ワイシャツの袖に落ちて―― 「マキさん! 早く魔王城へお戻りを!」  俺の隣で鬼が焦っている。 「魔王様! どうかお気を鎮めて! マキさんがまだ避難完了しておりません!」  は? そう思ったとき俺は上に持ち上げられた。じたばたする隙もなく尻から抱えられ、わけのわからないびゅんっというスピード(語彙力)で、気がつくと魔王城の中にいた。  魔王城、たぶん最上階である。何しろ目の前に地獄の地平線が広がっているからだ。いや、最上階とはいわないのか。ここは地獄だ。最上階じゃなく最下界……?  地平線でピカっと稲妻が光った――と思ったが、ドーンと地上へ墜ちたのは巨大隕石のような不気味に光る物体だ。パラパラパラッと割れるような音が頭上に響き、俺は思わず目をつぶる。魔王城のでかい窓というか、透明な壁ごしに、大粒の雨が降り注ぐのがみえる。隕石もどきからシュウシュウと煙が立ちのぼる。地獄の川があふれだし、車が、家が、水に埋まっていく。  え? あれ―― 「おい! 人が流されてるじゃないか!」  俺は思わず大声で叫んだが、隣にいる鬼(魔王の腹心)は淡々と答えた。 「人ではありません。亡者です。それと我々」 「助けないと! 死ぬぞ!」 「亡者はもう死んでますし我々は不死身です」 「いや、そりゃそうだけど……」  俺は口をぱくぱくさせた。 「なんで洪水なんか起きるんだよ。魔王は何をやってんだ……」 「魔王様がなさっているのです」 「だからなんでだよ!」 「魔王様はお怒りなのです!」 「なんで!」 「きまってます、現世のせいですよ! やつあたりです! 消費税が十パーセントになるからです!」 「は?」  水はみるまに地獄の地表を埋めつくし、いまや平らな水面の上に魔王城はぽっかり浮かんでいた。ふと空の一角が明るくなったと思ったら、雲の切れ目から地獄の太陽が顔を出した。ふいに雨がやんだ。薄明かりに照らされた水のうえを物体がゆらゆらと漂っている。早送りした動画のように水が急速に引きはじめる。地獄の時間は現世とはちがうのだ。  雲がするすると流れ、青空が広がった。 「魔王はマキさんのお好きな高級ステーキ肉を買いたいだけなのに……」 「地獄の魔王のくせになんでそう庶民的なこといってんだ」 「現世のことは現世の者にやってもらわないと……」鬼が深いため息をついた。 「魔王様もいまはただ、お怒りになることしかできないのです……ほら、あれが約束のしるし」  俺は思わず声をあげた。地平線から空の真ん中へ、虹がくっきりと半円を描いていたのだ。子供の頃にきいたノアの箱舟の話を思い出しながら俺はいった。 「約束って、もう二度と洪水を起こさないってやつ?」 「いえ。『これからも俺は怒るから覚悟しろ』という約束です」 「約束って言葉はそんな風に使わないだろう。それはむしろ脅迫――」 「まあまあ」  鬼はいかつい顔をゆがませた。笑ったのだと思う。 「ここは地獄ですからね」

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