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うるおい不足
いろいろあってリモートワークの春である。俺の会社も在宅勤務が導入され、おかげで俺は朝から自分のマンションにいる。部屋には魔王もいる。こいつは最近俺のマンションに居すぎだ。
「手がカサカサする」と魔王がいう。
「どうしてなんだ? マキ」
「なんでも俺に聞くな。魔王のくせに」
俺は呆れて答えた。
「地獄の主のくせに肌荒れの原因もわからないなんて、恥ずかしくないのか。毎日朝起きてトイレに行って買い物に行って宅急便を受け取るたびに手を洗っていれば、乾燥するにきまってる」
「そんな馬鹿な。地獄ではこんなにカサカサしない」
魔王はため息をついた。
「現世とは不便なものだ……マキもずっと地獄にいればいいのに」
「冗談よせ。俺は現世が好きだ。おまえはただのうるおい不足だ」
俺は鼻で笑った。地獄の主は意外なところで無知だ。原因は魔王の周囲の鬼どもではないかと最近俺は疑うようになった。あいつら、過保護なのである。現世の俺のマンションに魔王をよこすときは、宅急便の受け取り方くらい教えておけと思う。
「そうか……」
魔王は頭をかしげ、キッチンに立って蛇口をひねった。
「うむ……」
「何してるんだ?」
「いや、うるおい不足というから。乾燥してカサカサするのなら水で濡らせばいいのではないのか」
「馬鹿、足りないのは脂分だ。界面活性剤で皮膚を保護する脂の膜まで落とすからカサカサして荒れるんだって。こういうときはこいつを塗るんだ」
俺は青い缶を投げた。
「ハンドクリーム?」
魔王はまたきょとんとした。毎度感じるが、イケメンはこんな顔をしても様になるのでずるい。
「現世の人間がハンドクリームを塗る理由はそれか?」
「他にどんな理由で塗るんだ」
「そうだな、あいさつみたいなものだと思っていた。手洗いの儀式の一種かと……そうかそうか、なるほどな」
魔王は大きくうなずいて納得している。
「マキが痛いという時に尻に塗るローションと一緒だな。意味があるんだ。なるほど」
「おい! それはちがう話だ!」
「地獄なら痛くならないのに……現世というのは不便なものだ」
「ちがう話だといってるだろう! この馬鹿魔王が、そいつは返せ。おまえなんかひとりでカサカサしてろ」
魔王はにやっと笑って缶の蓋をあけ、俺の前にずいっと迫ってくる。両手の指と指を絡ませる仕草が妙にいやらしい。みているこっちもなんだかおかしな気分になってくる。
「さあ、マキの手にも塗ってやろう」
「ベタベタ触るな! これは俺のハンドクリームだろうが」
「そう照れるな。気持ちいいだろう?」
イケメンがニッコリ微笑んだ。確信犯の笑顔である。手のひらをスススッとなぞられると背筋がぞくぞくした。
「マキは感度がいいな。夜になったら別のを塗ってやる。地獄でもローションプ――」
「朝からそんな単語喋るなこの色ボケが」
俺は魔王を振り切ってパソコンの前に座った。リモートワークの春である。
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