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風船めぐり

「ハッハッハ! ハハハッハーハハハッ」 「プークックック……アハハ!」 「ガハハハッ、ガハハハハッ~ワッハッハ!」 「キャハックククククク……」  俺は魔王城のバルコニーに立っている。  今日は今年最後の勤務日だった。現実の世界の俺は仕事納めのあと帰宅して、飯を食って、風呂に入って、布団に横になった。そしていま地獄に落ちているわけである。  こういうのも二重生活というのだろうか、近頃はほとんど意識することもなくなって、うっかり現実の勤務中に「あ、先週地獄で似たような提案したんですけど、亡者の食いつきがいまいち悪くて」などと口走りそうになることもある。幸いこのときは寸前で思いとどまり、大丈夫、ちゃんと寝てる? などと上司に聞かれることはなかった。 「ちゃんと寝てる」かどうかは自分でもいささかあやふやだ。しかし地獄に落ちたあとの方が現実の目覚めはすっきりしているし、何よりも地獄のクライアントは筋がいいので、現実でトラブルがあったときなどはむしろ早く地獄に落ちたい。  だからまあ、気がつくと魔王城にいたこと自体はどうということもないのだが、今日の地獄はなんだかいつもと様子がちがった。地獄の地面から不気味な声が響いてくるのである。 「ハーハハハハハハッアッハッハッヒヒヒヒヒヒィィ……」  どうやら鬼が笑っているらしい。  大笑い、高笑い、含み笑い、ありとあらゆる種類の笑い声が響いてくる。バルコニーの手すりから首をつきだして見下ろすと、鬼たちは仁王立ちになったり地面にしゃがみこんだりその辺の何かを指さしたりしながら、とにかく笑い転げている。いったい何が起きているのか。 「マキさん、こんにちは……ハッハハハッァーま、魔王様はすぐにいらっしゃいますぅぐふふっ」  いまとなってはよく知った声音を聞いて、俺はふりむいた。魔王の腹心の鬼が立っている。この鬼とは地獄落ちのたびに会うのだが、今日は奇妙な表情をしていた。今にも崩れそうな顔の筋肉を必死でつなぎとめているようなのだ。話し方も変だ。 「どうかしたのか? あいつら、いったいどうしたんだ?」 「そ、それはですね……ハッアーハッハッハ…ハァ……中にお入りになりませんか」  俺はバルコニーから魔王城の中に入った。鬼はすばやくガラス戸を閉めて、空気清浄機のスイッチを入れた。 「いや、申し訳ありません。年末が近づいておりまして、現世の生者が来年のことばかり考えているものですから、我々はつい笑ってしまって」 「は?」 「生者が来年のことを話すと我々鬼は笑ってしまうのです。今月のはじめ頃までは、来年のことを話す生者もまだ数が限られていたのですが、冬至をすぎますと爆発的な数になりまして」  鬼はガラス窓の外を指さした。俺はカラフルな風船がいくつもいくつも、地獄の空をふわっふわっと漂い、舞い降りるのを目撃した。 「生者が口にした『来年』はあの風船に詰められて地獄へ落ちてくるのです。いつもなら見つけ次第片付けてしまうのですが、今はもうとんでもない数なので、とても全部回収できません」 「あ、ああ」 「回収できない風船は何かにぶつかったり地表に落ちたとたんに割れてしまいまして、中からあふれた『来年』は地獄の風に触れたとたん、笑気ガスになってしまうのです。それで我々は笑いを止められず、もう苦しくて苦しくてたまらず……」  なんだそれは。俺はぽかんと口をあけて窓の外を眺めた。ピンクの巨大な風船がふわっふわっと落ちていく。たしかにバルコニーからのぞきこんだ時にも風船はみえて、お祭りでもやっているのか? と思ったのだった。 「そんなわけで、年が明けるまで我々はすぐに笑ってしまいますので、どうかお気になさらず」 「あ、うん。わかった……」俺はうなずき、ふと頭に浮かんだ疑問を口にした。 「魔王はどうなんだ? やっぱり笑ってしまうのか?」 「いいえ!」  腹心の鬼はシャキン! と背筋を伸ばした。 「魔王様はそんなことはございません! 魔王様は地獄の王、我々のような鬼とは次元のちがう存在でございます! それに魔王様はひとつひとつの風船から、その風船を飛ばした生者を見分けることもできるのです!」 「あ、そう……」  いったい何の役に立つ能力なのかと思いつつ、俺はうなずく。 「だから魔王様は、マキさんに出会う前にマキさんの風船をご覧になっておりまして、よく覚えておいででした」 「え?」俺は背筋が寒くなるのを感じた。 「なんだそれ? 俺はそんなに来年のことを……」 「マキさんが地獄落ちされる前のことです。ああ、実は私も覚えています。何しろとても大きな風船でしたから」鬼の頬がにっこりとほころんだ。「来年になったら……来年になったらと、それはもう」 「マジか」 「ええ、でも来年のことを言葉にするのはよいことなのです」鬼はウンウン、とうなずいた。「むしろ恐ろしいのは、来年について口にするなど意味がない、考えるのも無駄、恐ろしい、などと思うほうです。それにマキさんはそのあと地獄落ちされましたので、魔王様はすぐマキさんを認識しまして、こうしてご寵愛されているのは誠に素晴らしい……」 「わかったわかった、ありがとう、ありがとう」  俺は頭を振って礼をくりかえした。「ありがとう」は地獄でも万能の言葉だ。「ごめんなさい」より「ありがとう」といっておいたほうがうまく回ることが多い。だいたい鬼にうっかり「ごめんなさい」などといおうものなら、地獄アトラクション体験チケットいりますか? と聞かれたりするので、要注意である。 「それでは魔王様がいらっしゃるまで少し――あっ」  スッと扉が左右にひらき、ぎょっとするほどのイケメンが入ってきた。すうっと風も吹きこんでくる。とたんに鬼は顔をほころばせた。 「魔王様! マキさんがおいでで――ハハハハハ! アッハッハ……申し訳ございませッブブブッ……これはその、ハッハハァ……」 「ああ、わかっている」魔王は腹心に向かってうなずいた。 「それより籠の用意はできているか」 「ハハハッハイモチロンッ!」  籠?  俺の頭には大きなハテナマークが浮かんだが、鬼は大声で笑いながらさっき閉めたバルコニーのガラス戸をあけた。 「どうぞこちらに!」  いつのまにか隣に立っている魔王の手が俺の肩にかかっている。 「マキ、行くぞ」 「ど、どこに?」 「風船で地獄めぐりだ。現世が仕事納めのいまごろは風船気球で見回るのにちょうどいい」 「へ?」  俺は聞き返したが、バルコニーに置かれた二人用の気球をみれば、もうパチパチ無意味にまばたきする以外のことは何もできなかった。気球の籠には風船がいくつも結びつけてある。魔王はパチンと指を鳴らした。上空を通る風船が魔王の手にすばやく集まり、自動的に気球に結びついていく。 「さあ、早く乗ろう。『来年』はうまく飛ばせばいい感じに飛ぶからな」 「あ、うん……」  俺は度肝を抜かれたまま籠に足を踏み入れる。魔王が俺の背中側に立ち、後ろからへその前へがっつり腕をまわしてくる。 「よしよし、なかなかいい」 「おい魔王」俺は首をすくめる。「そんなにくっつくな――あっそんなところ――触るなって……」 「心配するな。簡単には落ちない」 「そうじゃなくて!」 「では行ってくる。留守は頼んだ」 「行ってらっしゃいまーァハッハッハァーアーハッハッハ!」  鬼の高笑いに見送られて俺と魔王の乗る気球は宙に浮かび上がった。赤、青、黄色、緑、ピンク、紫、橙色――気球は『来年』の風船に支えられ、地獄の空を飛んでいく。

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