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12 文化祭③

 翌朝。シャワーの音で目が覚めた。目が覚めて隣に悠月がいないので、不安になって浴室に駆け込んだ。ドアを開けると悠月が眉間に皺を寄せて俺を睨みシャワーヘッドを向けるので、慌ててドアを閉めた。不透明なガラスに水が流れる。    そうか。あいつ昨日、風呂に入らずに寝てしまったんだ。それにしても機嫌悪そうだったな、当たり前だけど。そんなことを思いながら顔を洗うと、ぴりっとした痛みが左手に走った。見るに、昨日悠月に噛み付かれた箇所が水に沁みて痛むのだ。顔を洗った後、居室に戻って指一本一本に絆創膏を貼っていく。    骨まで噛み砕かれたかと焦るほど、悠月の顎の力は甚大であった。さすがに骨までは行かなかったが歯形はくっきりと残り、一晩経ってもまだ濃い血が滲んでいる。さすがにやりすぎだろう。俺の指が千切れたらどうするつもりだったんだ。布団にまで点々と血痕が残る。    シャワーの音が止み、続けてドライヤーの音が聞こえてくる。その後部屋着に着替えた悠月が出てきて居室に戻ってくる。   「せんせえ」    その声を聞いて、思わず笑ってしまった。風邪を引いた時みたいに、声がガラガラに枯れている。干上がった水溜まりみたいに喉がガサガサにひび割れているのだろうと、そういう想像をさせるような声だった。   「なに笑ってんだよ」 「いや、ごめん」 「先生のせいだ」    悠月はいきなり俺に飛び掛かった。布団に押し倒して馬乗りになり、顔を真っ赤にして怒る。   「どうすんだよ、こんな声で!」 「ま、まだ一週間あるし……」 「あと一週間しかねぇんだぞ! 明日だって練習あるのに、その声どうしたんだって絶対訊かれ――」    痛そうに喉を押さえて咳をする。乾いた咳だ。   「だからやだって言ったのに。しかもあんなにいっぱい……」 「悪かったよ」 「先生のバカ! バカバカ! アホ!」 「わ、悪かったって……」    駄々っ子のように暴れるので手を焼いた。腹の上に乗られているので重いし、暴れる度に内蔵を圧迫されて苦しい。ともかく悠月の両手首を捕まえて大人しくさせる。悠月は低い声で唸る。   「ほら、お詫びにあったかい蜂蜜生姜湯作ってやるから、な、許して」 「そういうのは」 「金柑喉飴も買ってあげるから、ね」 「だからそういうのは……」    悠月はちらりと俺の左手の小指を見た。歯形は残っているが出血は大したことがなく、絆創膏を貼っていない。悠月は何を思ったか、突然それを口に咥える。また噛まれるのかと俺は内心冷や汗を流す。   「お、追い打ちはやめてぇ?」 「あ? ちげぇよ。怪我してっから、舐めてあげる」    ちゅぱちゅぱと俺の指を吸う。捕まえていた両手首を放すとより念入りに唾液を纏わせて吸う。鼻を鳴らし、恍惚の表情で、熱心に俺の小指の傷を舐める。    妙な気分になってきた。俺は腹筋を使って上体を起こし、向かい合った状態で悠月を膝に抱く。悠月は指しゃぶりをやめない。頭を撫でると口を薄く開いて、その赤い舌を見せつけてくる。   「せんせぇのこの指……ぜんぶ、おれのせいだな」 「まぁ。でも昨日のことは俺が悪いし」 「痛かった?」 「そりゃあな。指食われたかと思った」 「ふぅん。痛かったんだ」    悠月は満足げに笑う。小指だけでなく、絆創膏を貼った薬指も口に頬張る。温かい唾液で濡らされて、絆創膏がふやけていく。   「やめろよ。不味いだろ」 「ん……ばんそーこの味がする」 「放しなさいって」 「でも……」    悠月は熱い吐息を漏らして吸い付く。絆創膏の接着面と俺の指との隙間へ器用に舌を突っ込み、絆創膏を剥がしていく。狭いところでちろちろと舐められてくすぐったい。   「痛ぇんだけど」 「いひゃい?」 「かさぶたが、まだちゃんとできてねぇんだよ」    俺は悠月の口から指を引き抜いた。最初からこうしていればよかったのだ。悠月の舌が名残惜しそうについてくる。透明の唾液が糸を引く。   「ぁ……」 「お前、朝っぱらからひーひー言わされてぇのかよ」 「違うけど……」 「じゃあもう終わり。指舐め禁止」    悠月はむぅと唇を尖らすが、それ以上仕掛けてはこない。代わりに枯れた声で言う。   「先生、おれ別に、これからずっとバンド続けてくわけじゃないからな」 「あっそ」 「……気にしてんのかと思ってたけど、おれの思い違いか」    膝に座っているせいで普段より目線が高く、悠月は偉そうに俺を見下ろす。   「聞きたくねぇの?」 「別に、お前が話すなら聞いてやる」 「先生も大概素直じゃないな」    まずはあの黒縁眼鏡の佐々野という生徒について悠月は話した。二年生になって同じクラスになったことで親しくなったらしい。悠月のことを気に入ったらしく、四月頃から既によく話しかけられていたそうで、体育のペアも組んでくれるらしい。   「変わったやつだよな。おれ、友達と呼べる存在ができたの、小学生以来だ」    彼は入学時から軽音楽部に所属していて、先輩二人と三人でバンドを組んでいたらしい。普段はボーカルなしの何とかというバンド形態らしいのだが、最後の文化祭であるし一曲くらいボーカルを付けてみようかということになって、佐々野が悠月をスカウトしたというわけだ。   「おれの声に惚れたって言うんだ。それに見映えもするだろうって」 「まぁお前、見た目は悪くねぇもんな。かわいいもん」 「そ……そうか」    照れたように俯いて笑う。   「かわいいかわいい。だから心配なんだよなぁ。あんまり目立つことしたら、目ぇつけられちまうだろ。お前のファンクラブとかできたら困るぜ」 「それはさすがにないだろ」    佐々野の誘いで悠月がボーカルを務めることになったものの、文化祭が終わったらバンドは解散するらしい。いずれにしても三年生はここで引退だそうだ。そうなったら佐々野は新しくバンドを組まなくてはならないし、あるいは全体的にドラムが足りていないそうなので他のバンドに移籍するのかもしれない。まだわからないという。   「歌うの結構楽しいけど、部活入る気はねぇんだ。色々面倒だろ? 余計なしがらみができたりとかさ」 「お前がやりたいなら俺は止めねぇよ」 「先生ぇ、寂しいなら寂しいって言えよな」    悠月は揶揄うように言う。悠月の方が目線が高いので、ちょっとばかり得意げだ。   「佐々野くんは誘ってくれると思うけど、勉強ちゃんとやりたいし、それに家でやることもあるし、ほっといたら先生泣いちゃうし」 「泣かねぇから」 「嘘だね。最近おれが帰り遅かったり、何も言わないで出かけちまうから寂しかったんだろ。昨日もそれで――」 「そういやお前、なんでバンドやること黙ってたんだよ。言ってくれりゃあ変な心配しねぇで済んだのに」 「それは……」    悠月は口を噤み、もじもじとして言い淀む。昨晩もこんな顔をしていた。   「だ……だって、おかしいだろ。おれみたいなのがバ……バンド、とかさ。そんな派手で目立つこと、似合わねぇと思って……言いにくくて」    それは一理ある、と思ったが言わなかった。これ以上自信を失わせてはいけない。   「だからって内緒にされたら傷付くぞ」 「うん。だからごめん」 「俺も、喉潰してごめんな」 「ん……それは許してない」 「マジで!? お前、今のは許しとく流れだろ」    悠月は俺の首に腕を回して抱きつき、耳元で囁く。   「蜂蜜と生姜の」 「うん」 「作ってくれたら許す」 「全然いいよ。簡単だし」 「あと喉飴」 「いくらでも買ってやるから」    それならスーパーへ行かなければならない。重い腰を上げ、布団から立ち上がった。ようやく一日が動き出す。    *    文化祭当日。絶対見に来るなと釘を刺されたので、俺はステージを見に行った。薄暗い体育館で、何色ものステージライトが幾重にも重なって光る。悠月はいつもの学ラン姿でステージ中央に立ち、マイクを片手に朗々と歌った。ライトを浴びて汗の一滴までキラキラ輝く姿は美しく、しかし俺としては複雑だ。    去年はつまらなさそうな顔をして――しかもメイド衣装などという珍奇な恰好をして――取り留めもなく観客席から眺めている側だったのに、今年はあんなにも真剣な顔をして生き生きと歌を歌っている。瑞々しい青春の一ページを、たった今更新している。一体何がこいつを変えたのだろう。    俺が気づけなかった悠月の長所を、あのバンドメンバーはいち早く見抜いたのだ。俺の知らない悠月を、あいつらはきっと知っている。たくさん知っている。それがムカつくとか、悔しいとか悲しいとかとは違うのだが、どうにも複雑だ。こんな感情は初めてだ。   「自分の飼ってる猫が、よそン家の猫に懐いてにゃんにゃん言ってたら、そりゃあ誰だってムカつくよな?」 「あんたの心が狭いだけだろ。冷蔵庫の裏側の隙間くらい狭いね」    スナック喜代子で飲んで愚痴ったらこの返し。でも言いたいことはわかる。    今年も悠月は早めに打ち上げを終えて帰ってきた。翌日の夜は文化祭を頑張ったご褒美に回る寿司を食べに連れていってやった。

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