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第6話

 バイトも無断欠勤している。明日だって仕事には行かないのだ。お金がないうえに信頼まで失ってしまったのだから、これでもう帰っても身を置くところはない。  じきにすべての支払いは滞るだろうし、自分をあてにしている母や伯母への義理も、これ以上は果たせない。でもどっちにしろ、金銭的には限界がきていたのだ。  神野は今月末で、このさき自分がすべての責任を負いつづけていくことができないと悟ってしまった。すると途端に重力に引っ張られるようにして、身体が重くなったのだ。  なぜだろうと疑問に思ったのが最後、答えの出しかたが分からなくなっていた。  それでも無意識は自分を楽にする方法を知っていて、ちゃんとそれを選んでいったのだ。神野は引きだしを探るとそこから睡眠薬と財布だけを持って、ふらりと外に出た。  そして目のまえに現れる道を歩き、現れた電車に乗り、バスに乗った。後ろも振り返らずに、少しづつさきへさきへと進んでいるうちに、あの岸壁へと辿りついていた。 (なにも考えていなかったはずなのに――)  あそこは子どものころに、家族で一度だけ訪れたことのある土地だった。  神野の苦笑に気づいたのか、篠山の親指が手の甲をそっと(さす)ってくる。抱かれてからしばらくのあいだ過敏になっていた神経はいまはもう安らいでいて、彼の触れかたをただやさしいとだけ感じる。 (そんなこと、感じたくもないのに……)  胸が苦しくなる。 「もう、寝ろ……」  僅かに身を起こした篠山が「いいから、目を瞑るんだ」と耳もとで囁き、そこにひとつキスを落とした。  そのキスにはなにかの効力でもあったのだろうか……、ほどなくして、瞼がゆっくりおりていった。                 *  翌朝、篠山は部屋の踏みこみで客を迎えていた。聞こえてくる声でその来客が近藤であることがわかる。彼にはすっかり騙されたけども、それも今さらだ。死ぬつもりの自分が文句を云ってどうする。  声の漏れ聞こえてくるドアへ視線をやろうとして、うっかり乱れたほうのベッドを見てしまった神野は、狼狽えてそこから無理やりに顔を背けるとふたたび窓の外に視線を戻した。  朝起きてからは身の置きどころがわからず、こうしてずっと窓の外ばかり眺めている。  眼下には忙しなく行きかう人々が、今日この一日を生きるために頑張って活力を漲らせていた。それにたいしてここにいる自分は、身勝手な卑怯者だ。疚しくて俯くと、着ている濃紺色のスウェット生地が目にはいった。  神野は今日、真新しいシャツにベージュのジャケットを着重ねていた。どっちもシックな色合いとフォルムをしていたが、ジャケットには遊び心のあるデザインのポケットがついている。他にも身に着けているボトムや下着も、すべて篠山が新しく買い揃えたものだ。  昨日まで着ていた服は勝手に処分されていて、しぶしぶこれらに袖をとおしたのだが、上下とも測ったかのようにサイズがジャストフィットだった。  「服のうえから男の裸を想像するのは得意」と笑った篠山に、神野は複雑な気持ちになった。そしてそんな気持ちを抱いた自分を、すぐさま否定したのだ。バカらしいと。  今日はさわやかな秋晴れだ。ガラス越しの空はとてもきれいでずっと見ていられる。きっと外に出るともっと……。 (もっとなんだ……?)  唇を咬みしめて、窓ガラスに額を擦りつける。 (なに考えてんだ。だから昨日のうちに、死んでおけばよかったんだ)  ガラスに映った顔が、みるみる歪んでいく。自分は命が惜しくなったのだろうか――。   扉の向こうでは、篠山と近藤の話がまだつづいていた。 「本当なら木本所長に挨拶しておかないといけないんだろうけど……」 「あぁ。そんなの気にしてくれてたの? ありがとう。実は所長は昨日のうちに孫会いたさに、東京に帰ってるんだよ。俺からちゃんと伝えておくから安心して。――じゃ、俺はみんなのチェックアウトを確認した時点で帰るから、また事務所でな、篠山。神野くんにもよろしく伝えておいて」 「ああ。ありがとう」 「篠山さん、その指定席券、俺がキャンセルしておいてやるよ。近藤さん幹事やってりゃたぶんバタバタするだろうし」 「そっか。じゃあ金山によろしくしようかな?」  篠山は昨夜のうちに今日の新幹線の予約をとりなおしていた。ひとの移動の多い時間帯を避けてグリーン車で二席。神野には東京に帰る気持ちはさらさらないというのにだ。 (どうして⁉)  勝手に段取りを組む篠山にひとこと云うために、神野は前室につづく扉まで移動した。そこには近藤ともうひとり、昨日自分の手を掴んで見張りをさせられていた男がいた。確か金山と篠山が呼んでいた男だ。  「あの、俺、帰りませんから」 「おっ? お前元気になったのな。よし、朝飯食うぞ。買ってきたから」  近藤のおや? というような表情をみた気がしたが、それよりも素早く金山に肩をぐいぐい押されて、主室に連れ戻されてしまう。ソファーまで引きずってこられると、強引に座らされた。鼻歌交じりに紙袋からマフィンやデッシュを取りだし机に並べる彼に、眉を顰める。   「食え食え。たぶんコレおいしいぞ。人気の高い店なんだってよ」 「……ありがとうございます。でも、いりません」 「なに? お前、まだ死ぬとか考えてんの?」 「……………」 「しっかり寝て、いいもん食べて、そしてちょっと周りの人間に頼ってみるとな、数カ月後には嘘みたいに状況が変わったりするもんだよ」 「…………」 「なに、その表情、信じてないの?」  昨日、近藤の言葉を信じたつもりはなかったが、それでもとんでもない目にあったばかりだ。迂闊に返事はしたくない。 「んー。俺の弟がさ。数年前にさ、自殺未遂起こしてんの。本人も家ん中もグダグダになってさぁ。あの時は俺ん家終わったかぁ、とか思ったんだけど、そのあとなんとかなった。弟はあの時のことが嘘のようにいまは楽しそうに生きている。それで俺たち家族もうまくいっていると思う。んー……、って云っても弟、音信不通ぎみなんだけどな。ハハハ。それでもなんか、トラブルが起きるまえよりも家族関係がよくなってさ、幸せってこういうのを云うのかな? って感じ」  金山から滲みでる雰囲気で彼が云っていることが嘘でないとはわかるが、それに自分が当てはまることはないのだ。  改めて耳にすると「自殺」という言葉は、やけに神経の上辺をひっかく嫌な響きをもつもので、神野は唇を歪めた。 「でさ、俺の弟と家族を助けてくれたのが、なんと篠山さんだよ。あのひと懐深いし、頭もいいし、きっとお前もなんとかしてもらえるよ。だから安心して任せておけばいいって」 (また、篠山を頼れとか……。あのひとがどれほどのものなんだ)  金山に気づかれないように、こっそり溜息を吐く。  親身になってくれる近藤にも金山にも自分は応じられそうになく、そのことで本来味わわなくてもよかったはずの罪悪感まで生まれてくる。彼らの親切心は自分をさらに苦しめる。だから本当に放っていて欲しいのだ。余計なお世話だと思ってしまうではないか。そしたらまた、そんな自分を責めないといけなくなるのだから。 「俺もお前の頼れる人間のひとりになってやるから。いつでも連絡してこいよ」  にかっと笑った彼は懐から名刺を取りだすと、デスクに用意してあったボールペンでそれに連絡先を書いて握らせてきた。 「あっ! そうだ」  そしてなにかを思いついたらしい。神野の横に移動してくるとぐいと身体を寄せて、耳もとで声を潜めた。 「お前な。いいか? 篠山さんに今後のことは任せても、絶対にケツだけは任せるな。あのひとゲイだからな。そこはしっかり自分で守れ! お婿にいけない身体にだけはされるなよ?」  遅すぎる忠告をした金山は神野の背中をバシンと叩いて立ちあがると、室内に戻ってきた篠山とすれ違いざまに挨拶をかわして、慌ただしく部屋を出ていった。

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