7 / 56

第7話

                   *  品川から国立にあるマンションまで篠山はタクシーを使ったが、世の中には贅沢に生きられるひとがいることも知っていたので、彼を非難しようとは思わなかった。ただそれが自分への配慮だとは神野は気づけずにいた。  ひとり暮らしだという彼が自宅に入るのにわざわざチャイムを鳴らしたのは、中で待っている相手がいたからだったようだ。通されたリビングには自分とそう年齢の変わらない青年がソファーに座って絵を描いていた。篠山は彼を「遼太郎(りょうたろう)だ」と紹介してくれた。  黒目がちですらりとした肢体の彼は神経質なところがあるようで、目があうと幾分眉間に皺を寄せて一度顔を逸らしていた。  大阪のホテルで東京には戻らないと云いはった神野に、篠山は帰らなくてもいいと云ったのだ。ただし、家には、と。  そうして連れて来られたこの住戸のリビングには、驚くことに自分の部屋から運んできたという段ボールが、いくつも積みあげられていた。 「で、ちょうど一段落終えて部屋を出たところに、神野さんの会社のひとがやって来たんだよ。あとちょっと出遅れていたら、俺は完全泥棒扱いだったかもな。危なかった」  遼太郎は積みあげた段ボールのうえに軽く腰掛けて、手の届く位置にあった別の段ボール箱をペンペンと叩いている。  部屋をそのままにして鍵も掛けずに失踪していたはずだったが、知らぬうちにそれを夜逃げに変えられていたようだ。 「無断欠勤を心配して様子を見にきたって云ってたぞ。とりあえずインフルエンザってことにして、俺のところで寝ていることになっているから、神野さん、もし出勤することがあったらちゃんと話あわせておいて」 「さすが遼太郎、機転がきくな。ほかに忘れ物とかは……」 「ポストの中身は持ってきたけど、まだ郵便局に転居届け出してないよ。そのうち一回アパートのポストを見にいっておいたら? あとチャリとか原付とかまではわからないから、放置してきた」 「わかった。それだけしてくれたら充分だよ。あとはこいつに聞いておくから、まだなんかあったらお前にお願いする」 「うん。任せて。じゃ、俺、帰るね」  遼太郎は転居届を段ボールのうえ置くと、立ちあがった。 「晩飯食べていかないのか?」 「うん。今日はいい……」  玄関に向かおうとする彼に篠山が土産のちいさな紙袋を渡すのが見えた。「金山から」と云う篠山に、遼太郎はそっけなく「ふーん」と答えてさっさとそれをポケットにしまう。  彼は急いでいるようだったが、それでも神野から見えにくい扉の向こう側まで行ったとき、篠山の首を引き寄せて彼の頬に唇を押しつけていた。  リビングに戻ってきた篠山は、長い脚を放りだすようにしてソファーに腰かけた。 「お前の部屋、やたらと整頓ができていたんだってな。書類も貴重品もまとめて置いてあってわかりやすかったって、遼太郎が電話で云ってたぞ」  遼太郎によって神野の住んでいたアパートのガスや電気などの契約は、すでに解約されているそうだ。退去届も昨日のうちに投函されているという。  篠山には昨日免許証を見られたが、それだけであのあとからいまの間までにここまでされていたとはと、言葉を失う。遼太郎のしたことは詐欺に当たる行為かもしれないが、それを責められる自分ではない。ただ、彼が駆けまわっているあいだに自分がしていたことに思いあたった神野は、苦々しげに目を伏せた。  その微妙なタイミングでソファーに座っていた篠山に手招きされる。逃げだしたい気持ちになったが、促されて仕方なく彼の隣に座ると、強い力で肩を引き寄せられた。 「やっ」 「暴れるなって、ヘンなことはしないから。ちょっと俺に凭もたれて」  昨日のことを思いだしたばかりなので、ぎこちなくなってしまう。 「疲れているとは思うけど、ちょっとだけ契約や金の流れについてだけ話さないか?」  篠山の傍には住んでいたアパートの契約書と通帳が置かれてある。途端に湧いた吐気を無理に治めると、もう関係ないことだからと、それらから目を背けた。 「…………」 「意固地だよなぁ。それならまぁこれは明日でいいか。お前はしばらくここに住むからな。今月末の家賃引き落としは半額程度。来月からは毎月の家賃や光熱費など一切支払わなくていい。そしたらだいたいひと月十万は浮くだろ? 金がなくて苦しんでいるなら、これで少しは楽になるんじゃないか? 時間が無くてつらかったんなら、この浮いた十万ぶん、アルバイトを減らせばいいだろ?」  篠山の口からでたアルバイトという言葉に、肩を揺らして顔をあげた。 「あの……」 「仕事のあとに毎晩バイトに行っているんだろ? お前のスマホにはいった連絡を遼太郎がとったんだよ。無断欠勤は迷惑がかかるだろ? で、昨日も、今日もだけど、お前のかわりに行かせているヤツがいるから、バイト先にはさほど迷惑はかかっていないはずだよ。だからお前はなにも気に病まなくていい」 「あ……」 「ということで、シルバーウィークあけるまでは、お前には時間がたっぷりあるから。ちょっとゆっくりしてみ?」  さっきから時間が進むにつれ重苦しくなっていた胸が、嘘のように軽くなっていた。 「よし、じゃあ、お前の事情はまた明日にってことで。大阪から帰ってきて疲れただろうし風呂にもはやく入りたいだろ? メシはあとにしてさきにさっぱりしようか」 「……え?」  彼が一度部屋を出ていったのは湯張りのためだったらしく、すぐに戻ってきた篠山は神野の衣服を脱がしにかかる。 「ちょ、ちょっと」 「男がさ、服を贈るってのは、脱がせたいって下心があるからだとか聞いたことない?」  楽しそうに笑った彼は、神野が着ていたベージュのアウターをするっと剥いで床に放った。 「やめてくださいっ、て――」 「お前はしばらく他人に世話されていろ。はい、ばんざーいっ」  抵抗もむなしく上だけボタンを外した濃紺のシャツがすぽっと頭から抜きとられると、ソファーから掬われるようにして抱きあげられた。 「やっ、離してっ」 「はい、あかちゃん抱っこですー。あはははっ。暴れると落っこちるぞ」  篠山の胸を押し、なんとか離れようとやっきになっていると、今度は揺さぶりあげられて肩に担がれる。  天地が逆になってしまい血の気の下がる不快感に目を瞑った神野は、不安定な体勢に恐怖を感じて、落ちてはかなわないとぎゅっと篠山の腰にしがみついた。                  *  翌朝、神野は出勤まえの篠山に起こされた。  彼は紺色のVネックのニットのセーターに、黒のパンツをあわせたカジュアルな姿でベッドに乗りあげてきた。背後にまわった彼にだるい身体を起こされて、抱きこむようにされる。いわゆる恋人座りだ。 「……寒い」  肌を晒したままの神野が呟くと、篠山は「俺に凭れろ」と云いながら羽毛布団を肩まで引きあげてくれた。そして神野の膝のうえに通帳を開いてみせる。 「で、お前の出費について知りたいんだけど、この毎月カミノヤヨイさんに送金している七万円ってなんだ? 親への仕送りか?」 「……はい」  観念してぼそりと返す。 「お前まだ二十二だろ? その歳でこの金額って多いだろ。実家の所得は低いのか? 母子家庭だとか?」 「父がいなくて母だけの収入になっています。実家にはまだ学生の弟がいるので、余裕がないらしいです」 「母親は実家に頼ったりはできないのか? 同居はしている?」  神野は首を横に振った。 「……母が祖母を嫌っているんで。いっしょに住むどころか……、数年前に祖母が家を買ったです。そしたらそれに母が張りあってしまって、ローンを組んで新築の家を買ってしまいました。送金している七万はそのローンの返済に当てられていると思います」 「なんだそりゃ……。息子に寝るまもなく働かせておいて、本人は見栄のために新築の家って……」 「はい。困ったひとです。祖母もそういう母に腹を立てていますので、経済的には援助は求められません」 「だな。家さえ手放せばいいんだからな」

ともだちにシェアしよう!