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第8話
「じゃぁ、このタジマユミさんへの不定期的な送金は? これもずいぶん金額がでかいけど?」
「そのひとは伯母です。いまは長期入院しているんですが、入院給付金で足りなかったぶんを私がだしています」
「伯母の家族は?」
「いないそうです」
母の住宅ローンの支払いが滞れば、すべてが連帯保証人の自分にまわってくる。だから無責任に母を放りだすことはできない。それにたとえ母があの家を手放したとしても、ローンは残るのだ。静岡のあんな田舎に建っている家など、買ってくれるひとも借りてくれるひとも、そうそう見つかりはしないだろう。
母親は気にも留めていないが、神野には自分がいなくなれば彼女が行き詰まることはとっくに想像がついていた。母が自分を連帯保証人にして家を買うと知ったときにもっとしっかり反対していれば、自分が死んでも彼女を困難に陥 れることはなかったのだろう。
伯母だって自分の存在がなければ、手術による入退院の合間に適切に金策をしていたはずだ。病状が思わしくない彼女は、いまとなってはもう身動きがとれないでいる。
彼女たちを切り捨てられずにやってきた行いが、自分だけを頼りにしているあのひとたちを、より残酷な状態で放りだすという結果になった。
(自分が終われば、彼女たちは多くのものを手放すはめになる)
それならばはじめから見ぬふりをしてくれればよかったのに、お前がなんとかしようとしたからあてにしたのだと、彼女たちにはきっと恨まれるに違いない。確かにすべて自分が悪い。
突如湧いた胸に鉛が閊えるような痛みに、たまらず身体を抱きしめる。瘧のように震えだすと、まわされていた篠山の腕の力が少し強くなった。
「こら、余計なことは考えなくていい」
耳にかかった髪を指さきでやさしく梳いて囁いた彼は、ことも無げに話をつづけた。
「そっか。あとほかの支払いは? ここに記帳されているもの以外でなにかあったら教えてくれ。借りているお金とか、いま思いつくのあるか?」
通帳には神野の勤める会社と、アルバイト先からの定期的な入金がある。入金と出金、そのほか生活費などをおおまかに推測してざっと差し引きしてみて、これだけでは即座に自殺を選ぶほどの原因にはならないと見立てたのだろう。彼は鋭い。
神野は自分を飽和状態にした元凶を思いだして顔を歪めた。強張ってしまった口をそれでも懸命に開き、貼りつく舌を無理やりに動かす。
本当に楽になれるのだとしたら、もうどんな方法でも構わない。とにかく終わらせたかった。真実、自分は篠山にそれを望めるのだろうか。
「……あの、……税務署から封筒がきました」
「もしかして、バイトの給料?」
「……はい」
「はは。なるほどな。そりゃきついな。ショックだっただろ?」
篠山は神野の頭を「大丈夫大丈夫」と云ってくしゃくしゃと撫でた。
――本当に?
眉をぎゅっと寄せて振り返ると、篠山はしっかりと頷いてくれた。
「ああ大丈夫だ。任せろ。それだけか?」
神野はこくりと頷く。その頭をまた大きな手のひらがひと撫でしてくる。
「人間関係とか、金のこと以外にはトラブルないのか? お前の死にたかった理由はそれだけ?」
その質問にもちいさく頷いた。
「だったらなんとかなりそうだな。金の件は解決できる。ただ慎重にしないといけないから、追々、話をきいて対処していくな。だからしばらくは休息をとって、それから頭の中を整理しろ。お前は気づいていないだろうが、一番厄介なことになっているのは、お前のココだよ」
そう云って彼が指さしたのは、神野の心臓のあたりだった。意味がわからず彼の指さきを見つめたところで、来客を告げるチャイムが鳴る。
ベッドを降りた篠山はちょっと待っていろと云い残して、寝室を立ち去った。
それからじきに賑やかな話し声が聞こえてきて、篠山が知らない青年連れて寝室に戻ってきた。髪に緩いウェーブのかかった、見るからに明朗そうな男は自分とおなじくらいの年齢か。
「はじめまして。箕輪 春臣 です。神野祐樹 さん? 今日からしばらくのあいだおつきあいよろしくね」
人好きしそうな笑顔で会釈した彼に、素っ裸だった神野は布団を首まで引きあげて顎を引いた。
「こいつがお前のかわりにバイトに行ってくれたヤツな。俺はもう仕事で家でるから、あとのことはこいつに任せている。なんかあったら遠慮なく春臣に云えな」
そう云って篠山は寝室を出ていった。春臣はそんな彼を見送りにでることはしないで、布団に包まった自分の傍らで、「匡彦さん、いってらっしゃぁい」と手を振るだけで――。そして日中本当にずっと自分につきっきりでいた彼は、夕方になって帰宅した篠山を、これまた布団に包まったままの自分の隣で、「おかえりなさーい」と迎えたのだった。
*
春臣はこの近所にある大学の経済学部に通う三年生で、学校のすぐ近くのアパートでひとり暮らしをしているそうだ。歳の離れた篠山とは身内でも同窓でもなく、行きつけの店で知りあった仲だという。
神野は静岡から就職のために東京にでてきて五年になるが、まだ友だちもできていないし職場のひとともプライベートを共にしたことがない。そんな自分には店で出会ったくらいで、誰かと交友関係を築くことなんて絶対にできないだろう。
人間関係が希薄なことについて、神野はそれを性格の問題ではなく、時間と気持ちの余裕のなさのせいにしているが、実のところはわからない。
聞けば春臣とは年齢がおなじだった。学年でいうと自分のほうが一学年上になるが、おなじ流行を生きてきたせいもあって話題があい、親しみを感じることができた。それ以上に彼の朗らかさと邪気のなさに、安心して隣にいられたのだ。
春臣は篠山に頼まれて空いた時間のほとんどを、自分とともに過ごしてくれていた。自分がまたなにかしでかすかもしれないと篠山は危惧しているが、神野自身それを否定することができないでいる。
いまはただ篠山に云われたとおり目のまえのことだけを見て、感じて。――身内とお金の一切のことを考えないようにしていた。
ふとそれらのことを考えてしまったときに発作的に自分がなにかをしでかして、ここにいるひとたちに迷惑をかけてしまわないかと不安だった。それに自分だってもう、あの絶望的な苦しみを思い返したくはない。
仮病と連休のあと、長い休暇を終えた神野は職場に復帰した。嘘のインフルエンザの期間は有給扱いにされていて、なにごともなかったかのように職場に戻れた日、神野は安堵のあまり作業しながら思わず涙ぐんでしまった。
毎日篠山のマンションから拝島 駅近くの工場までを、春臣がバイクで送迎してくれている。職場に自分がストーカー被害にあっているんだとまことしやかに説明した春臣は、工場の敷地で日中の大半を過ごしながら自分の仕事が終わるのを待ってくれていた。彼が大学をサボっているのは明らかだったが、それもはじめのうちに篠山や春臣に気にするなと云い含められている。
篠山はひとり暮らしにしては広いマンションの一部を、彼の経営する税理士事務所として使っていた。彼以外に遼太郎と末広という女性が従業員として通ってきていたが、篠山と末広は客先に出向いてばかりで、比較的マンションにいる時間が長いのは遼太郎だった。
神野をマンションに送り届け、篠山か遼太郎のどちらかが神野を見られる状態なら、春臣はアパートへ帰っていく。数日まえまでは彼はこのあと拝島に戻って、神野のかわりに飲食店で四時間ほど働いてくれていたのだ。しかしそのバイトはもう辞めた。
いつまでも自分のかわりに彼にバイトに行かせつづけるわけにいかない。なんども自分で働くと云ってみたのだが、春臣が「絶対に祐樹にはいかせない」と云って譲らなかったのだ。だったらいっそのことバイトを辞めたほうがいいと判断した。新しいバイトはまた折をみて探せばいい。
辞めることを選べたのは、住んでいたアパートを引き払ったぶんだけ金銭に余裕ができたからだった。
アパートを引き払うには一月まえに解約届をださなければならない。したがって九月半ばに届けをだした神野は、十月半ばまでの家賃をすでに払っている。住んでもいないアパートの家賃を払うのは気分のいいものではなかったが、それでも九月末にあった家賃の引き落としはちゃんと日割り計算されていて、いつもの半額ですんでいた。記帳したばかりの通帳で実際にその金額を見たとき、神野はひとつ肩の荷が下りた気がしたのだ。きっとこれでよかったんだと思った。
出金が減ったことを確認できたこの夜も、ベッドの中で篠山の胸に背を預けたまま少し泣いてしまった。
その翌日に、平日の夜にはいっていた飲食店に、バイトを辞めることを伝えたのだ。
これも迅速に動いてくれた遼太郎のお陰だそうだ。もし解約するのに連休を跨いでしまっていたら処理がスムーズに捗らなかったかもしれないと、篠山が云っていた。
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