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第9話

「祐樹ん家さ、離婚って、父親は祐樹と弟の養育費とか払ってくれていたの?」 「いいえ。払ってもらってないです。父はいなくなったんです、十年ほどまえに」 「へ? どゆこと?」 「はぁ。でもホントにいなくなったんです。ある日突然に。どこにいるのか私は知りません」  週末、みんなで集まって食卓を囲んだあとの春臣との会話だ。  ダイニングテーブルには、ふたりのほかには遼太郎が座っていた。口数の少ない彼は会話に参加することもなく、広げたクロッキー帳に鉛筆を走らせている。家主の篠山はというとリビングのソファーに移って、静かにたばこをふかしていた。 「あの……、どういうこと? 父親のこと、誰もどこにいるか知らないの?」  スパークリングワインをグラスに注いだ春臣が、そのうちのひとつを手渡してくれた。 「蒸発したってことで、数年後に母が離婚届を出していました。たぶん母も伯母も父の行方は知らないと思うんですが……」  子どものころのことだし、神野にはその経緯はよくわからない。母に訊いても「知らない」の一点張りで埒が明かず、神野ははやいうちから父のことを詮索するのはやめていた。ただ大人同士の会話から、周囲の誰もが本当に彼の行方を知らず手を焼いていたのが伝わってきていた。  ありがとうございますと、お礼を云って受けとったグラスを唇に押しあて、首を傾げる神野に、彼はどんどん質問してくる。 「じゃあさ、なんで離婚した旦那の姉の面倒を、祐樹ん家がみないといけないの? そりゃ祐樹と伯母さんは、ちょっとは血が繋がっていたかもしれないけど、そんなの祐樹のお母さんが断ったらいいのに」  理不尽だと、春臣がテーブルをバンと叩く。 「んー。それを云うとですね。実は私と伯母さんは血が繋がっていないんです」 「は? なにそれ? なんで?」 「父は田嶋の養子でして、血の繋がっていない兄のお嫁さんが伯母なんです」 「……それってその伯母さん、祐樹にとってはほんとにまったくの他人じゃない。なんで面倒みるの? 祐樹そのひとに恩でもあるの?」 「私は最近まで彼女とは面識がなかったので……どうでしょう? 恩はあったのかな?」 「いや、だったらないでしょ」 「母は伯母に乞われるままに大抵のことはしていますね。昔のこととか自分は全く知らないんですが、母はなにか伯母に弱みを握られているようで逆らえないらしいんです。その理由を聞いても言葉を濁されて、教えてもらえないんですけどね」  伯母からの電話にいつも従順な返事しかしない母の姿を思いだし、神野は重くなってきた胃に手をあてた。 「はあぁ? なんか、祐樹には悪いけど、俺正直、その伯母さんよりも祐樹の母親にムカつく。会ってめっちゃ罵りたい」 「なんなら会いにいって、云ってやってください」  憤懣遣るかたないようすの春臣に、神野は首を傾けるとふんわりと微笑んだ。不思議なことに胃の(つか)えが、すうっととれていく。 「じゃあさ、その伯母さん、入院していて家なんていらないんだから、家を処分しちゃったら? 家賃浮いたぶんで入院費まかなえばいいじゃん。もし退院することがあったら家を借りなおすか、お金ないなら祐樹の実家で同居したらいいんだよ」 「でもまぁ、家くらいは置いてあってもいいんじゃないですか。ただ、彼女お店も持っているんですよ。そっちは処分したほうがいいんじゃないかって。それとなく云ってみたんですが、どうしても嫌だって断られてしまいました」 「なに、その話。ひとにお金支払わせておいて、営業してない店をキープしてるってこと?」 「そうなんです」 「その店も、伯母が勤めていた会社を辞めてはじめようとしたばかりのところで。やっと夢が叶ったってタイミングで癌が見つかったので、まだ開店準備の途中のまま放置状態なんですって。でもその店が彼女の生きがいになっているみたいで……だから、強くは云えません」 「はぁ……。なんか祐樹の身内の話聞いていると、俺の神経が焼き切れそう。その伯母さんが身辺整理したらお金が浮くのに。がめついな。祐樹のお金あてにしているの、ホントムカつく」  不愉快そうに唇を歪めた春臣は、ワインをグビッと呷った。神野の話はいい酒のアテになるようで、食後のいっときのあいだに、彼はなんとボトルを二本も開けていた。  このマンションでは仕事終わりの遼太郎がそのまま夕飯を食べて風呂をつかい、のんびりしてから帰ることが多い。神野の見張りをしている春臣も然りで、この日もふたりは遅くまでリビングで寛いでいた。   ふたりが帰ったあと日課になっている篠山との入浴をすませた神野は、彼とともにベッドで手足を伸ばしていた。すでにおなじように日課になりつつある情事も終えたあとだ。  もとから体力のない神野は篠山に好き放題に弄ばれたあとは毎度ぐったりで、いまも指一本動かすことが億劫なほどだった。瞼が重く、もう意識がなくなる間近だろう。お陰で毎夜余計なことを考えずにすんでいる。 「お前、春臣にやけに懐いたな。あいつとはあんなに喋るとか、びっくりしたわ」  確かに出会ってひと月の人間とこんなに親しく話せるようになるとは、自分自身でも思ってなかった。高校生時代ですら和気藹々と接してくれる友だちなんていなかったのだ。  それは他人に踏みこませることを躊躇させる神野の遠慮深さが問題としてあったのだが、当の本人は未だ気づけずにいる。  いつも背筋をぴしっと張り、歳不相応の慎みのある神野がまったく他人を頼りにしようとしないので、周囲のものは一歩も二歩も彼から引いてしまうのだ。そしてついには周りから消えていく。高校を卒業してすぐに県外に就職してしまったせいもあるが、いまの神野に高校時代からつづく友人はひとりも残っていなかった。  春臣は今夜、神野の身内にひどく腹を立てていた。だったら彼女たちの話など訊かなければいいのにと呆れてしまったが、それでも自分のかわりみたいにして怒ってくれる春臣に、心が綻んでいくのを感じたのだ。 「春臣くんとは、なぜか話やすいんです。うまく言葉を引きだされると云うか……。きっと春臣くんが気を配ってくれているんでしょうけど」  自分が春臣とうまくやれているのは、すべて彼の人徳のなせる(わざ)だろう。  彼はこのひと月で、神野の職場のひとたちとも親しくなっていた。五年勤めている神野が未だまともに口を聞いたことのない年配の社員と、仲良く彼がおやつを食べながら立ち話をしているのを見たときにはびっくりしてしまった。  神野は春臣を通じて、職場のひとと多く言葉を交わすようになった。するといままでよりも仕事が円滑に進むようになり、それに伴って職場で過ごす時間自体がとても楽になっていた。一日が終わったあとの肉体と、そして精神の疲れ具合がずいぶんと軽い。  追い詰められていたお金の問題も、篠山に迷惑をかけるもののなんとかなりそうで一安心で、そして仕事も順調だ。それでも神野には胸がざわついて、不安に呑みこまれそうになるときがまだまだあった。  最近神野は、自分がなんの防御も後ろ盾もない脆弱な存在だと自覚してしまい、そのことを怖いと思うようになっていた。薄いガラスでできた危うい足場に立っているような錯覚が、ずっとついてまわるのだ。  ――まだいまは考えてはいけない。深く覗くな。後ろを見るな。  そういったときは、呪文のように自分にそう云い聞かせている。  それでも気が張りつめて神経が波打ち眠れなくなってしまうこともある。そんな夜はいつもおなじベッドに眠る篠山がすぐに気づいて、自分を組み敷いてきた。  神野は篠山と春臣がつきあっていることに、うっすらと気づいていた。  あれだけ親身になってくれている春臣にたいして罪悪感がないわけではないが、でもべつに篠山と交わるのは愛情を確かめるためではないのだ。これは単なる性欲の処理だと割り切っているし、もちろん、篠山もそれ以外に自分を抱く理由なんてあるはずがない。  ただ篠山に恋人を裏切る行為を強いていることだけは悔やまれ、それが胸にちいさなしこりとなっていた。だからといっていまの自分に彼の手を振り払うことはできない。  篠山が背中から抱きしめ全身を凭れさせてくれているから、なんとかこんな無防備な自分でも存在していられるのだ。いまの瞬間に彼を失ってしまうと、自分は簡単にガラスの床を踏み割って谷底にでも落ちていくだろう。  それに――、なぜか彼に手首を掴まれると、自分は逆らえなくなってしまうのだ。  篠山と眠るのは、とても心地がいい。だからしばらくはそれに甘んじていたいと、春臣への疚しさに無視を決めこんで、神野は毎夜厚かましくも篠山の腕の中で目を閉じている。

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