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第10話
彼のたばこの香りで神野の神経は随分と落ちついた。そして耳へと落とされるひとつのキスに誘われるようにして、安寧な眠りにつく。
「弟がいま、大学に通っているんです。奨学金でですが……」
今夜最後のたばこを灰皿でもみ消し布団に潜りこんできた篠山が、いつものように背中にくっついてきた。
胸にまわされた腕にはもう性的なニュアンスはなく、そこにあるだけでただただ自分をリラックスさせてくれる。
「私にはそのことが羨ましくって――」
こんなことを云いだすなんて、その温もりに身体だけでなく口までも緩んでしまったようだ。
「神野はなんで行かなかったんだ? 勉強はできなかったのか? 頭、悪かったとか?」
「頭はよくはないかもしれませんが。お金は自分で払うから進学したいって、母にはなんどもお願いしたんです。でも家に余裕がないから働いてお金を入れて欲しいって、許してもらえなくて……」
「それは残念だったな。でもどうしてもって云うなら、金貯めていつか行けばいいさ。それよりも、俺はその弟の奨学金をお前が払うはめになるんじゃないかと、そっちが心配だよ」
「それは、ないです。絶対に嫌です。弟だけズルいって、あんなに悔しかったんだから。弟の大学費用はなんとしてでも母と弟で払ってもらいます」
それは神野がこのマンションに連れてこられてから、はじめて口にした愚痴だった。
*
この日神野はタイムカードを押したあと、会社の敷地のあちこちを春臣を探してまわった。いつもなら退勤時間近くになると必ず自分の傍にきてくれているのに、今日はどこへ行ったのだろうか。
そしてようやく彼を見つけられたのは、なんと別棟にある事務所の中だった。
「いたっ」
まさか外部の人間である春臣がこんなところへ来ていただなんて。神野は息を切らしながら彼の名を呼んだ。
「あれ? 祐樹もう終わったの? って、もうこんな時間かぁ。ごめんごめん、うっかりしてた」
驚くことに彼は、パートの事務員や社長とここで酒を酌み交わしていたのだ。
事務机には飲みかけの酒瓶が二本、そしてすでに空になった瓶も一本転がっている。「飲みやすいわねぇ」「トウコちゃんもう一杯飲みなさいよ、そしたらこれ空くから」とみんなでワイワイと楽しそうだ。
「おおっ!」
(うわっ⁉)
扉のまえで唖然とつったっていた神野は、すぐ背後であがった太い声に、びくっと飛びあがった。
「なに⁉ 飲んでんの? いいなぁ、社長まで。俺にも飲ませてよ」
「あっ、工場長! ちょっと来て、来て。これめちゃおいしいの」
年上の工場長を手招きしながら、春臣自身も酒瓶を持って彼のもとにやってきた。
「梅酒かぁ。甘いだろ? それだったら俺はちょっと苦手かも……」
「いやいや、それが、ただ甘いってだけじゃないから」
そう云って春臣が彼に持たせたグラスに注いでいる酒瓶には、たしかに『梅酒』と書いてある。作業着のまま目のまえでグビッと黄金色の液体を煽る工場長に、呆気にとられた。
「お、ベタつかないな。けっこううまい」
「でしょ? まぁ、工場長もよかったらたくさん飲んでいってくださいね。俺、もう祐樹と帰るんで。あとはみなさんで片付けよろしくです」
新しいボトルが二、三本入った段ボール箱を指さしてから、春臣は面々に「さようなら」と手を振った。自分のもとへやって来る彼に、みんなも別れの挨拶を投げてくる。
「さ、祐樹お待たせ~。帰ろっか」
そうは云われても、このままバイクに跨れば飲酒運転だ。なんと云ってそのことを伝えればいいのだろうと、彼のまぶしい笑顔をまえに逡巡していると、
「おいっ、こら待て! お前たち、バイクは置いていけよ!」
と、グラス片手の工場長がかわりに注意してくれた。
「あっ!」
ほっとした神野だが、そこではじめて「しまった」という顔になった春臣はまったくなにも考えていなかったようだ。しっかりしている彼もたまにはこうやって失敗するんだなと思いながら、当然だよね、と神野は頷いた。
「ごめ~ん。俺なんも考えてなかったわ」
自分の表情が険しくなっていなかったかと心配した神野だったが、春臣がそれを気にした様子はない。彼は眉じりをさげて手を摺りあわせてきた。
「だから、今日はいっしょに電車に乗ってね」
自分より大きい春臣に可愛らしく小首を傾げてお強請りされたものだから、神野はたまらず噴きだしてしまった。
勤める板金工場の斜交 いには、ワイナリーがある。
春臣は今日、その建物のほうへ向かってふらふらと遊びに行き、出会ったワイナリーの従業員に勧められて酒蔵に上がりこんだという。
彼に聞いてはじめて知ったのだが、ワイナリーは歴史あるぶどうの産地、勝沼 の老舗のワイナリーの東京での営業拠点だったらしい。そこの専務が近年使わなくなっていた大型タンクを利用して、梅酒もつくりはじめたそうだ。
そしてワイナリーであれこれ試飲してまわった春臣は、結局ぶどうのワインではなくこの南高梅 の酒をいたく気にいって、大量に購入したらしい。
「俺さぁ、おいしいものって好きなひとたちにも食べてもらいたい、飲んでもらいたいって思っちゃうんだよ。匡彦さんも遼太郎くんもお酒好きだし。ごめんねぇ、祐樹に持ってもらえるってあてにして、お土産いっぱい買っちゃったんだ」
訊けば、いま持っているもののほかに、篠山のマンションにも一ダース買って送ったそうだ。そして手土産の一部を神野の職場に差しいれ、いま揺れる電車の中でそれぞれ二本づつ入った紙袋を手にさげていた。
バイクで帰るのだったならば自分が一升瓶を四本、後ろのシートでひとり持つはめになったのだろう。考えるだに危なそうだ。だったら今日の帰宅は電車になってよかったのかもしれない。
「でさ、祐樹。帰るついでにこの二本を、知りあいのお店に持っていきたいの。悪いけど立川 でいったん降りて、ついて来てくれないかな?」
春臣といっしょの通勤は、たいていは彼の運転するバイクを使う。――場合によっては篠山の車を借りることもあるのだが――たまに寄り道をすることがあっても、せいぜいマンション近くのコンビニかスーパー程度だった。
和歌山から東京に帰ってきてひと月たつが、神野はそれ以外にまだどこにも出かけてはいなかった。どうかな? と首を傾げて返事を待つ春臣に、新鮮な気分になって「かまわないですよ」と頷いた。むしろどこかに寄り道できるのは、うれしかったりする。
そして今日、神野は人生ではじめて仕事のあとに、酒を飲んで帰った。
春臣に連れられていった店はいわゆるゲイバーだったが、テレビで見たような派手なメイクや女装をしたひとなどひとりもおらず、ぱっと見た感じではふつうの店だった。
ただし三時間ほど滞在したが、そのあいだに女性客が訪れなかったことから、やはりここがそういう店なのだと納得した。
店で春臣はスタッフにも常連客にもとても人気があった。それもそうだろう。見ている限り彼の性格のよさは、誰にたいしてもおなじように発揮されている。それで彼は周囲に愛されている。
梅酒は一本は店主に渡して、あとの一本はその場のみんなと空けていた。
酒が介在する場ではひとは多少遠慮をなくしてしまうようだ。ここでは「取り澄ました外見をしているね」と云いつつも、自分にも話かけてくれるひとたちがいて、神野は思いもよらず楽しい時間をたくさんのひとと共有することができた。
「ほらよ。解約したアパートの管理会社から手紙がきた。悪いけどさきに読ませてもらったよ。お前も見てみ」
就寝まえに篠山に三つ折りのくせのついた一枚の紙を渡された。ベッドに寝転んだまま肘をついて、その印字された短い文に目を通す。
「これ……」
内容は家賃の返金に関するものだった。
「運がよかったな。遼太郎が退去の立ちあいを、連休まえにすませてくれていたんだよ。で、あいつの狙いがあたったらしい。シルバーウィーク中にあっさり決まった次の借り手が、すぐに住み移ったってさ」
それで前に払っていた一カ月分の家賃が、すべて返ってくるそうだ。
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