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第12話

「うぅ……、ひっく…‥」  しかしこんなにもやさしく扱ってもらっているのに、それでも涙はとまることはなく、結局神野は泣きつづけたまま、朝を迎えた。    ベッドからでたあとは、一日のほとんどをソファーで横になっていた。  なにもできないでいる自分に服を着せたのは篠山で、そのあとも食事すらままならなかった。篠山になにか話しかけられることがあっても、それに返事をしたのかどうかさえ記憶に留まらないほどなにもかもに無気力で、ただただむせび泣いていた。  そうしているうちに部屋が薄暗くなっていき、窓ガラスが夜を映せばリビングに照明がつけられて。つぎに気づくと部屋は間接照明だけになっていた。  そのうち室内に眩しい陽が射しこんでくると、今度はいつのまにかまた照明が落とされて暗くなっている。  認識できないままぼんやりと涙のとまらない虚ろな瞳で、そんなことが繰り返されるのを眺めていた。  自分はなぜ泣いているのだろうか。  時折脳が働いたときには、そんなことを思った。でもうっすらわかるのは、篠山がいるから泣いていられるのだろうということだけだった。眠れずにいる自分に、ずっと彼はついてくれている。おぼろげに一度だけ、彼は仕事をどうしたのだろうと考えた気もする。  そんな状態がつづいたあと、神野が正気づいたのは週もあけた火曜の夜だった。  丸三日眠れずに泣くだけ泣いて、火曜の明け方に気絶するみたいに瞼を下ろした神野は、目が覚めるとまるで体内に飽和していた濃霧が出口見つけて流れでていったかのように爽快になっていた。  この時から神野ははじめて篠山と出会ってからのことを、まともに顧みることができるようになり、それから近藤の云っていた「いい方向」に、自分がちゃんと向かっていたことに気づくことができたのだ。  近藤や金山が云っていたことは、正しかった。  それにしても自分は、こんなにも篠山に依存していていいのだろうか。ひと月ものあいだ、彼のお金も時間も、そしてその肉体までもが無償で自分に与えつづけられている。  こういうことは短いあいだだけならば許されるのだろうか。それとも篠山や春臣に云われたとおりに、いまの自分はそんなことすら考えなくてもいいのだろうか。  それから神野は篠山とどう向きあえばいいのか、わからなくなってしまった。  もうこれ以上の迷惑をかけたくはない。彼に自分に踏み込ませることが、申し訳なくてしかたない。そしてそれは一見神野がいままでにも持っていた人間関係における悩みにとてもよく似ていたが、しかしいままでのように、呵責が付随するものではなかった。  事態は確かに好転している。でもそれとは別に神野は自分の中に、運気とはまた違った正体不明のなにかの変化を感じていた。  そんな折に、入院していた伯母の訃報(ふほう)が届いた。                      *  篠山が荻窪(おぎくぼ)にある木本税理士事務所に立ち寄ったのは夕刻のことで、そのまま近藤の仕事が終わるのを待ってふたりで入ったのは駅前にある居酒屋だった。  間口の狭い店は入り口からカウンター席がしばらくつづくが、奥までいくと空間が開けていて四人掛けのテーブル席が五つある。そのひとつでふたりは向かいあって座った。並べた数品のつまみをつつきながら、熱燗を酌みかわす。  近藤とこうしてゆっくりとした時間をとるのは、ひさしぶりのことだった。 「じゃあ、これからは神野くんの負担は、もう実家の仕送りだけってこと?」 「と、追徴税がどうなるか。そのあたりは遼太郎に任せてる」 「そっか。なんにせよ、先の見通しがついたんならよかったよ」 「たった一度会っただけの相手心配して、お前って相変わらずひとがいいよな」  花が綻ぶように笑う近藤に、彼が心底神野の心配をしていたことが窺いしれた。  篠山は彼の温厚な性格と、惜しげなく見せる柔らかい微笑みが昔から好きだった。  彼とは大学時代からいっしょだが、二十代の血気盛んな仲間たちと連れ立っていたときも、彼は粋がることも斜に構えることもなく、いつもマイペースで篠山の傍らで微笑んでいたのだ。  性格はまったく違う自分たちだが、気があった。近藤はおっとりしているように見えるが意外にフットワークが軽く、しかも面倒見がよい。そんな彼はすぐにトラブルを背負いこむ篠山を、よくサポートしてくれた。 「なに云ってるんだよ。それは篠山のほうだろ? ふつう旅行いって人間拾ってくるか? 犬や猫じゃあるまいし。まぁそれが単なるお節介なら俺は非難するけど、お前はちゃんと相手の力になれるからな。でさ、俺、あの子に、篠山に任せておけってお前を推したんだよ」  そう云うと近藤はグラス越しに、にこっと笑った。 「万が一、それでもし、うまくいかなかったとしたら、俺が損害費払うって」 「損害費って?」 「慰謝料? だからホント、俺の懐が痛まないように、うまく解決してあげてね」 「ふっ。多少のことじゃお前の懐は痛まないだろ? そりゃIT化で年々仕事は薄くなっていっているけどさ。そのうち親の太客(ふときゃく)も受け継いだら、お前が現役でいるうちくらいはなんとかなるだろ? いつまでも分厚い財布もってられるって」 「分厚い財布だって。なに云ってんの? いまはキャッシュレスの時代だよ」 「はいはい。あとはさ、ま、さっさと結婚でもすりゃいいさ。いつまでも独身だと、税金払ってばかりでもったいない。大野さんはどうしたんだよ?」  篠山は苦い気持ちに目を瞑り、彼が懇意にしている女性の名まえを口にしてみた。 「んーっ。どうしよう。実はさ。来月の彼女の誕生日にプロポーズしようかって、考えているんだ。もう毎日ドキドキして、夜も眠れない」  新しいたばこに火をつけて、ひとつ紫煙を吐くと苦笑した。 「云ってる間に三十を迎える男が、なにがドキドキだ。なんの心配もいらないだろ? 彼女とはあんだけ仲良くやっているんだから」 「まぁな。でもさ、やっぱ彼女のバックが怖いんだよ。俺、まだ彼女の両親に会ったことがなくってさ、挨拶に行って殴られたらどうしようか、とか。もうドッキドキ」 「そっちか」  そう、そっちそっち、と近藤が朗らかに笑う。 「プロポーズ、うまくいったらまた知らせろよ? お祝いしてやる」 「あぁ。ありがとな。結婚することになったら物入りだから、やっぱ懐は温かくしておきたいんだよ。――だから神野くんのこと、俺から云うのもなんだけど、ちゃんと頼むよ」  にっ笑った近藤に、軽く口角だけを上げて返した篠山は、燻らせていたたばこを口から離して、またひとつ紫煙を吐いた。  近藤と別れたあと、なんとも後口の苦い酒になってしまったなと悔やみながら帰り道を歩いた。  なにも楽しく過ごせたはずの飲みの席で、わざわざ結婚の話なんて振らなければよかったのだ。近藤を喜ばすことはできたが、案の定、自分が痛い思いをしている。 (馬鹿か、俺は)  家について、存外に引きずる性分であった自分に舌打ちしながら靴を脱いでいると、中からにぎやかな声が聞こえてきた。 「ただいま」  リビングに入ると、春臣と神野が食後の後片づけをしていた。並んで洗い物をしながら、ふたりはおかえり、おかえりなさいと口ぐちに返してくれる。

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