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第13話
ダイニングには遼太郎も座っていた。いつもどおりそっけなく「おかえり」とだけ返して、抱えたクロッキー帳から目を離しもしない。そのそっけない挨拶も、素直なふたりにつられて口にしただけだろう。通りすがりにクロッキー帳の中を覗きこむと、そこには相変わらずの、おどろおどろした地獄絵が描かれていた。
遼太郎は一百 三十六地獄のすべてを描くつもりでいて、いまクロッキー帳に描かれているのはその下書きだ。このあと彼なりにアレンジした地獄絵図は、彩色されてネットにあげられる。最近その一部が出版されて店頭に並んだばかりだった。
(今日はやけに熱がはいっているな)
心なしか、顔つきもきつい。なにかあったかと気にはなったが、プライドが高く気難しいところのある彼にはこの場で直接問うことはしないでおく。
それにしても、家に帰るとこんなにも容姿のレベル高い子たちが待っていて、甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれるとは、ゲイ冥利につきるなと篠山は頬を緩めた。とくにキッチンに並んで立つ春臣と神野の姿がかわいらしい。飲み屋で会うお仲間たちにこれが知られると、やっかまれるに違いない。
「匡彦さん、お腹減ってない? ごはん食べる?」
「いやいい。いま近藤と食べてきた。連絡いれとけばよかったかな? ごめんなぁ」
「そっか。じゃ、おかず冷蔵庫にいれとくから明日にでも食べて」
そう云うと春臣はダイニングテーブルをさっと拭いて、そこへ酒瓶とグラスを並べはじめた。
「祐樹、飲もうぜー」
神野を呼んで、ふたり席について乾杯する。春臣が傾けたグラスに、神野ははにかみながらグラスをチンとあわせていた。
神野はけっこう酒が好きらしい。そして春臣となら実によくしゃべる。ふたりはよっぽど気があうのか、一日の終わりにこうやって酒を酌み交わすことをここのところの日課にしていた。
見目よい若い男が三人、ダイニング机を囲んで過ごす姿をソファーで寛ぎながら眺め、それを肴に晩酌をする。最近、こんな夜が続いていた。
遼太郎のほうはグラスに手をつけることもしないで、苛ついたまま絵を描きつづけていたが、篠山は神野をさっと観察すると、彼が見た限り別段沈んだ様子でないことに安堵した。
「静岡、どうだった?」
昨夜、神野の伯母が亡くなった。
それで体調が悪いと訴える母親にかわりに、神野は今日、会社を休んで朝から静岡にある伯母が入院していた病院に行っていたのだ。
彼がそこで不愉快な思いをしたり、また金銭問題を抱えて帰ってきたら厄介だと考えた篠山は、それに遼太郎を随行させた。もしかしたら、遼太郎の不機嫌の理由はそのへんにあるのかもしれない。
「それが……」
困った顔をして話をしぶる神野に、かわりに彼の隣に座る遼太郎が口を開いた。
「俺たちが病院についたら、存在しないはずの遺族たちが、故人の遺産の分配で揉めていたんだよ」
描く手は止めず、彼は吐き捨てるように云った。
「親族はいなんじゃなかったのか?」
思わず顔が険しくなる。ちらりと遼太郎に視線をやった神野が、肩を落として頷いた。
「はい。そう聞いていたんですが……」
「なにそれ!」
タンッと、グラスの底を机に打ちつけたのは春臣だ。
「遼太郎くん、そのひとたちになんか云ってやった? 祐樹が昨日振りこんだばかりの店の家賃のこととか、入院代のこととか。遺産があるんなら全部返してもらいなよ! 祐樹は今月のお給料が全部、右から左に流れていったんだからね‼」
実際には昨日の振り込みの金額は、神野の給料だけでは足りなかった。それでいくらか篠山が都合してやっていたのだが、賢明な春臣はそのことについては口にしない。
週末から数日間泣きくれていた神野が、やっとぐっすりと眠ることができた翌日。すっきりとした顔で一日を過ごした彼のスマホに母親からの連絡がはいったのだ。
それは入院している伯母が店舗の賃貸料金を滞納していたという内容で、その支払いを助けてほしいというものだった。
電話相手にまで、ぴしりと姿勢を正して話す神野が、いとも簡単に押し流されて「明後日、給料がはいったら振り込みます」と母の話に応じたときには、それを黙って聞いていた春臣は地団太を踏んで悔しがっていた。
そして昨日、神野は反対する春臣に謝りながら、振り込みを済ませたのだ。伯母が亡くなったのはその数時間あとだった。怒りが冷めやらぬうちのこの遼太郎の話に、春臣が眦 を吊り上げるのも仕方がないだろう。
「保険金からの返金を要求してみたんだけど、自分たちは家賃の支払いなんて頼んでいないって、けんもほろろ。店のことは知らなかったし、知っていたら処分させてたってのが、そいつらの云いぶんだったよ」
「はぁ? なにそれ? 死んだ伯母さんだって、お前らに遺産もらってくれだなんて頼んでないんじゃないのっ⁉」
「頭おかしいんじゃないかな? 話の通じるヤツらじゃなかった。病院がはやく手続きしてくれって云っているのに聞かなくって、遺体すら放置状態だったんだよ」
「マジか……」
「で、どうしたんだ? そのあと」
絶句した春臣にかわって、聞いた。
「埒が明かないので、もうあとは知りませんって云って帰ってきました。病院のかたには遺体をどうするかせっつかれたんですが、血縁者がその場にいる以上、私が決めるわけにはいきませんし。伯母さんには悪いと思ったんですが……。遼太郎さんは車で静岡まで往復大変でしたよね。本当にごめんさい」
「祐樹、お前しつこい。もう謝るな」
遼太郎に窘 められてしゅんとする神野のグラスに、春臣がビールを注ぎたす。
「たいへんだったね、祐樹。俺がお前を労ってやるからな。さ、飲んで、飲んで」
「ありがとうございます」
「ほんとに遠慮なんかしてないで、アルバイト代じゃんじゃん使えな。まだ返すとか云うなら怒るよ」
「でも、あれは春臣くんが働いてくれたお金だから……」
「まだ、云うかっ。ここにいたって毎日少しはお金がかかるんだから」
神野が申し訳なさそうな顔をして唇を咬む。
「……すみません。家賃も光熱費も、食費すら入れてなくて。本当に篠山さんにはご迷惑かけています」
「なんで俺に謝るの?」
頭を下げる神野に春臣が「匡彦さんはアッチ」とこちらを指さした。
「あ。……篠山さん、本当にすみません。時間はかかりますが、絶対にお返しします」
頭の固い神野に苦笑いした篠山は、それでも彼の気持ちを否定しなかった。
「あぁ。返してくれてもいいけどな。期間の幅を長くとっておけよ。十年くらいかけてゆっくり返すくらいの計算でな。なにせ、お前、しばらくはいろいろ出費がつづくから」
「はい。そうさせていただきます」
「なんで? 伯母さん死んじゃったし、これからは病院代払わなくてよくなったんでしょ? あとなにが大変だっていうの?」
「はい。さきに追徴税 ですよね。なんとかがんばります。すみません甘えてばかりで」
なんで、と不思議がる春臣の隣で、ちゃんと心得てますとばかりに、神野が答えた。
「追徴税? それってどういうこと?」
春臣の言葉に、絵を描くことに戻っていた遼太郎が顔をあげる。
「春臣、祐樹の通帳見たことあるだろ? いまのところ金繰 りはぎりぎりでなんとかなっているように見えているけど、それは表面上だけのことで、実はすでに赤字だったんだよ」
「そうだったの?」
「祐樹はアルバイトの所得をずっと申告してこなかったんだ。そのプラマイ0に近い預金額から、まだ税金を支払わないといけないんだけど、そうなったら赤字だろ?」
「ああ。そっか。そうなるか」
「せめて祐樹が実家のローンの連帯保証人じゃなくて、連帯債務者 になっていたら、住宅ローン控除 で減税があったんだけどね。ぎゃくに親は控除でラクしてるんじゃない?」
「なに? またムカつく話?」
「プラス無申告加算税、延滞税。市都民税や社会保険料の追加もあるかもしれない。数十万は追徴されるね。結局、祐樹の寝ずに働いていたバイトの儲けの半分ちかくは税金だな。せめて伯母さんの医療控除ができたらいいんだけど」
「……遼太郎さん、なんか聞いていると胸がつまります」
そこまで黙っていた神野が胸を押さえると、情けない声をだした。冗談めいてでもそうやって今回のことを口にできるようになっているのなら、ひとまず安心なのかもしれない。
「いいか、祐樹。なんども云うけど、睡眠不足が祟 って病気になったり、不注意で怪我して大金損するまえにバイトの量を減らせ。どうせ働いただけ払う税金が増えるんだ。馬鹿らしい」
つづけて「ま、それでも伯母さんがちょっとでもはやく死んでくれてよかったな」と毒を吐いた遼太郎に、春臣が「遼太郎くんひどい、鬼だ」と形だけの非難をしていた。
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