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第15話

「んー。給与所得以外な……。とりあえず、お前はいまはまだ余計なことを考えるな。遼太郎にぜんぶ任せておけ」  遼太郎が彼にどこまで話をつくっているのかわからず、言葉を曖昧にしておく。 「でもちゃんと家賃が浮いたぶんさっさとお金も返して、はやくここを出ていけるようにします。だからそれまではすみませんが――」 「はいはい。まず金銭面をきれいにしてからな。で、ちゃんと睡眠取れて、ちゃんと飯が食えて、なおかつそれでも金繰りができるっていうようになったら、ここを出してやる。ってことで、お前はおそらく、あと一年はここで生活だな」 「え? そんなにかかりませんよ。たぶん春には」 「光熱費と食費、削るつもりだろ? そういうことをやりすぎると気持ちが病むからダメだ。慌てるな。さきさきと考えないで、いまは俺たちの云うこと聞いておけ。お前のいまの脳ミソはポンコツだからな」 「…………はい」  返事とは裏腹な、不服そうな表情に苦笑いする。 「祐樹、できたよ」 「あ、はい」  キッチンから春臣に呼ばれると、神野はとっさに篠山が握っていた手を引いた。  神野は春臣とは仲良くやっているようだが、なぜだか最近、春臣のまえで彼は自分と距離を置きたがるようになった。もしかして春臣に、自分とセックスする関係だと感づかれないようにしているのだろかとも考えたのだが――。 (いや、まさかな。初対面のとき、あいつまっ裸でベッドの中だっただろ。とっくに春臣に知られているってことは、わかっているよな?)  では、なんでだ? 首を捻りながらダイニングでグラスを並べるふたりを見る。彼らはいくつものカクテルグラスやシャンパングラスにソーダや酒を次々に注いでいた。 「今日はなにしてるんだ?」 「んー? これね。祐樹、ひとつ匡彦さんに持って行ってあげて」  ティストをはじめた春臣はなにやら真剣で、もうこちらを一目(いちもく)もしない。  神野に「どうぞ。これ梅酒です」といって渡されたグラスの底には、ライムグリーン色のゼリーが沈んでいた。 「春臣くん、梅酒でゼリードリンク作るって云いだして。梅酒でゼリー作ってソーダ注ぐか、梅ドリンクでゼリー作って梅酒注ぐかとか、あと、ゼリーもアガーとかゼラチンとかいろいろ試して、どれが口あたりがいいかって。いま実験しているんです」 「で、神野はそれを手伝ってるんだ?」 「はい。仕事から帰ってきてずっとこれです。あ、でもゼラチン固まるあいだに夕飯は食べました。すぐに篠山さんの食事の用意、しますね。ダイニングあんなんなんで、すみませんがここで食べて下さい」  ダイニングテーブルは散らばる書類やデジカメに、ラップトップパソコンまで置かれていて、ちょっとした職場のようになっている。  ソファーのまえのローテーブルに篠山の食事を運び終えた神野は、春臣に呼ばれて慌ただしく彼のところ戻っていった。  近頃、神野はようやく手に入れた暇を使って、春臣と出かけたり勉強したりと楽しそうにしている。そうだ。働いたお金を国に持っていかれるぐらいなら、もっと自分の時間を持てばいい。せっかく生きているのだから、できる限り楽しまないと。 「あ、篠山さんもコレ飲みますか?」  神野がグラスといっしょに抱えてきた一升瓶のラベルに目をとめると、そこには『紀州(きしゅう)南高梅梅酒』と書いてあった。  差し出されたグラスを受けとりながら、うれしそうな彼の顔と、その一升瓶を交互に見比べる。神野が「どうぞ」と酒瓶を傾けた。  ――ちょっと南紀(なんき)まで自殺未遂に行ってきました。お土産の梅酒です。  ふいに浮かんだフレーズに我慢できず、篠山は噴きだした。 「えっ? えっ? どうしたんですか、篠山さん?」 「あははははっ、ダメ。これウケる。三段壁っ、南高梅っ」  神野はその梅酒の原料の産地が、彼が命を絶とうと赴いた断崖のあった地域の名産だとは知らないのだろう。  そうだ。彼に忌まわしい思い出なんて、ひとつも残らなければいい。このまま時間が経てば、いつかは彼のつらかったことすべてが笑い話で済ますことができそうで――、篠山はそのことに、誰にともなく感謝した。                       *  ひとは余裕がなくなると(ろく)なことを考えない。ただしひとは余裕がありすぎても碌なことを考えない。  日常生活に余裕の生まれたはずの神野の挙動が、日に日におかしくなっていく。  それまでは篠山が仕事を終えてリビングに戻ってくると、いたって普通に食事を運んだりしてくれていたのだが、なぜかここ数日、彼は春臣に運ばせるようにしむけている節がある。  お茶一杯入れるにしても、神野は春臣に云われてからでないと自分のことでは動こうとしなかった。そしてそれは春臣がおなじ空間にいるときに限ってのことだ。 (どうしてだ? こいつはいつから春臣の顔色を窺うようになった?)  そしておかしいのは神野だけではない。 「俺と遼太郎くんが住んでいるアパートって、匡彦さんの持ちものなんだよ」 「それって篠山さんが借りている部屋に、ふたりが住んでいるってことですか?」 「違う違う。匡彦さんがアパートを建てたんだよ。大家さんってこと。そこに大学があるでしょ? 俺が通ってる大学なんだけど――、」 「はい」 「その敷地の横に建ってるの。主に学生さん用で、1Kとシェア用の2DKの部屋があるんだ。匡彦さん、まだ若いのにすごいでしょ?」 「はい、すごいです。大学の横ってことならば、ほんとに春臣くんのお(うち)はここの近所なんですね」 「そのうち遊びにおいでね。でもそのまえに日光に匡彦さんのBMWでドライブだよ」 「はい。楽しみにしています」 「あっ。なんならお泊まりにしちゃおっか? ねえ、匡彦さん。今度、祐樹と行くドライブさ、温泉旅館、奢ってよ」  にわかに話を振られ、「ああ、わかったよ」と顎をひきつつもそれに応じると、春臣が満足げな顔をした。 「だってさ、祐樹。匡彦さん太っ腹でしょ?」 「……えぇ。でも、いいんでしょうか……」 (ほらみろ。神野がひいているじゃないか)  春臣はこのあいだから、やたらと神野のまえで篠山を立てるのだ。それも度が越しているので、篠山としては身の置き所がない。彼が自分に一目置いてくれているのも知っているし、懐いてくれているのもありがたいが、それにしてもこれはあんまりだろう。 (いったいどうしたんだよ……)  見かたによっては、春臣が神野をけん制しているようにとれなくもない。それで神野が春臣に気を遣いはじめたとでもいうのだろうか。  けれども、春臣が神野のことを気にいっているのは一目瞭然だ。神野だって自分が彼に好かれていることくらいわかっているだろう。 「春臣くん、泊まりの旅行は篠山さんとおふたりで行ってきてはいかがですか? 私は日帰りのときにでもまた誘ってくれたらいいですから」  案の定、春臣の好意を勘違いした神野が遠慮しはじめる。 (そりゃそうだ。そうなるわな) 「すみません。私が邪魔してばかりで。いつもはふたりでドライブしているんですよね?」 「そんなことないよ。遼太郎だってついてくることが多いし。それに俺はもうすぐ忙しくなるからな。遊びになんて行っていられない。気にしないでふたりで楽しんでこい」  しょうがないなとフォローを入れてやるが、淹れたてのお茶を運んできた神野の顔は晴れないままだ。かわいそうに。  なにせ自分がいないところでのふたりのことは、自分にはわからない。一度遼太郎に確認しておいたほうがいいのだろうか、それともこのまま放置でいいのか。 (ややこしいことになっていなければいいんだが……)  篠山は咥えたばこでソファーに横たわると、アンニュイな気分で前髪を引っ張った。

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